11.16 哀惜、ノスタルジー。
昨日の体重65.1kg、体脂肪は10%であったろうか。創業明治38年という居酒屋で1時間半ほど飲んだ。その後神保町まで歩いて、今回の神田カレーグランプリ2位の三月の水さんを訪れ、ココナツカレーを頂く。大変美味であった。しかも歩いて10分かからない距離にある。
本の街神保町に住んで、整理が困難だ、と思いながらもじわりと本は増えている。出版史、というものがあるのなら、その中で一瞬のきらめきを示す存在や出来事が、周りで色濃く存在していることをいろいろな断面から感じている。
本が面白いのは当たり前で、本自体の美しさを愛でたい、
というのが某愛書家の名言であるが、そんなこんなでなんとなく本をめぐる過去現在未来をぼんやりと考えることが増えた。
ここ数年が紙の本が電子書籍の次の存在となる決定的な時期となるだろう。
森博嗣氏はすでに何年も前からこのことをおっしゃっていたし、例えば廃却の困難さを考えてみれば、すべては早晩データ化するであろう。物の所有全般が、である。
最後に残るのは、「健康」だろうか。個別の生物としての「我」の最適化。体に良いものを食べ、良い体験をする。運動をする、という世界。
なので、本はより個体に沿ったもの、ユリエールやプライベートプレス、といった世界に収斂するだろう。だが、価格は高くなり、本は貴重品に逆戻りする。
先日プライベートプレスを行う方のお話を聞く機会があった。しっかり作った本は600年持つ、という。そうしたものはもはや美術品であり、時代に渡すかりそめの引き継ぎ手、という位置に、「所有者」はあるのだろう。
紙の本の存在が大好きであるが、そこへの思い入れが極く個人的である、ということも感じる。次代に引き継ぐことは難しくなりつつある。これは腕時計や服飾などでも言える。みんながたしなみ、愛し、楽しみ、身に着ける、ということは、変化してゆくのだ。
そのことを惜しむ気持ち、がノスタルジーと呼ばれ、哀惜と称される境地なのであろう。だがその気持ちは、新しく生活を進めてゆく人たちにはすこし不可解な境地、でもあるのだ。一部の酔狂な人たち以外にとっては。
(最近は私も電子書籍を買いだしました。。。)