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11月24日 遅読、積読。本のある雰囲気だけで自分は変容する。(「買ったが読んでいない本」からのアピールについて)
昨日ちょっと書いた松岡正剛さんの「多読術」を注文した。
今年になってこの方々は私の読書世界にとって重要な方である、と感じる方が相次いで亡くなった。
高橋巖さん 1928-2024.3.30(享年95歳)
荒井献さん 1930.5.6-2024.8.16(享年94歳)
松岡正剛さん 1944.1.25-2024.8.12 (享年80歳)
神智学や人智学、ルドルフ・シュタイナー研究で知られる高橋さんは、亡くなる前日にも横浜の朝日カルチャーセンターでシュタイナーの講義をなさっていて、翌日亡くなっているのをホテルで発見されたときも机上には次回講義の資料であろうか、シュターナーの文章のコピーが置かれていたという。
亡くなる前日まで講義をなさっていた、という姿に、圧倒される。
私は、東京に来る前にWEBでこのカルチャーセンターの高橋先生の講義を受講していた。東京に来てから受けられなくなって残念であったが、当時93歳の先生の講義は受けながらもなんと貴重なものか、と感じつつの受講であった。
荒井献さんは、日本におけるグノーシス研究の泰斗というべき方であろう。1971年、41歳のころであろうか、初めて単書で?出された「原始キリスト教とグノーシス主義」、この本は先日古書で買い求めたところだが、この本で日本学士会賞を受けられている。
東大の院を卒業後、以下の経緯を経て東大教授を1991年までなさっている。
ドイツに留学しフリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルクで『ナグ・ハマディ写本』中の『真理の福音』のキリスト論において神学博士の学位を得る。
1958年(昭和33年)から青山学院大学文学部で助手・専任講師・助教授として勤務したが、当時の大木金次郎院長兼理事長と対立して1969年(昭和44年)に辞職した(1972年まで非常勤講師)
WIKIPEDIAより引用。
荒井氏は、58年から69年まで助手・専任講師・助教授として神学科に勤務し、その後も72年まで非常勤講師を務めた。同氏は自著『「強さ」の時代に抗して』(岩波書店)を引用しつつ、理事会決定により同学科が廃科されるに至った「青山学院大学神学科問題」の核心が、「大木金次郎院長兼理事長に代表される大学管理者がその管理イデオロギー(「建学の精神」としての「キリスト教」)に神学科が従わないと断定し、これを強引に廃科したことの当否にある」と述べ、問題の経緯を解説。自身を含めた神学科教師の責任にも言及した。
キリスト新聞社 2015年6月13日より引用。
同情報によると、1971年は同氏が青学の助教授をやめて東大教養学部助教授になられたころで(青学の非常勤講師は1972年まで継続)ある。
1945年に、ナグ・ハマディ文書がエジプトで発見されてからの研究がまとめられている本だと思う(まだ目次を見たレベル)。
まだ私のなかでぼんやりしている”グノーシス主義”というものが、この本を読んでよりクリアーになってきそうだとの予感があり、期待している。
松岡正剛さんは、印象としては唐突にお亡くなりになった印象だ。
WEB版「千夜千冊」の1846夜(2024.4.11)では、丁度荒井献さんの弟子筋にあたる大貫隆東大名誉教授ほかが編まれた「グノーシス 異端と近代」を取り上げられており、
その情報量と見識の深さに圧倒される。
お亡くなりになる4か月前の日時であるが、まったくその素振りやあるいは衰えは感じられない。むしろその深み極まれり、といった感である。
1846夜 『グノーシス 異端と近代』 大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編 − 松岡正剛の千夜千冊
1775夜 『グノーシスの宗教(増補版)』 ハンス・ヨナス − 松岡正剛の千夜千冊
「千夜千冊」は危険な存在で、その書評というには深すぎる文章を読んでいると、ついその本が欲しくなる。
私は最近あまり本は読めていないし、買うのも極力控えている。
だがこれは買っておかねば、という本に遭遇すると、耐え切れず買っている。
で、思ったのだ。
今は別に読まなくてもいい。
いつか機が熟して読むことがあるかもしれない、ないかもしれない。
いつか読む(可能性がある)本を買うのが、人生だ。
読まずとも、積んでおいて、そのタイトルを感じているだけでも、それはいい。
この本を買ったな。
いつか読もう。
そう思うことが、大切なのだ。
もちろん電子書籍で買っておいてもいい。だが日々その「買ったが読んでない本からのアピール」が、電子からくる圧はあっても低いだろう。
存在としての本、そのサイズ、佇まい、古本か新刊購入か、いつ買ったか、高いか安いか、無理して買ったか(まあだいたいそうだが)、装丁、やれ具合、といった要素が、すくなくとも部屋に置いておけば、じわりと滲んでくるのだ。
書棚に入らず、床に並べてもいるが、これは普段見えてない分、たまにしゃがんでみてみれば、「おお、この本がこんなところに」「こんな本買ってたんか!!」「この本はダブって購入しているわい(´;ω;`)」といった悲喜こもごものキブンに襲われる。
そして時に、「昔この本を買った自分、グッジョブ!!」という気もちにも。
その気分がまた危険、本との出会いは一期一会、という謎で危険なモットーが、胸にあらためてむくむくと沸くのである。
その時の内面の「マイブーム」に合わせ、結構芋づる式に本を買うくせがあるが、
今はどうやら久しぶりに「グノーシス主義」のようである。
(ああ、金がない。また食費を削って購入か。。。
あ、"遅読”のタイトル回収がまだでしたね。本は別に”読破”が必要ではない、グッと来る一文があればいい、という境地に最近はなっている、ということを言いたかったんですね―。。。)
ちくまプリマー新書 106
原始キリスト教とグノーシス主義 (1971年)
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