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7月10日 ちょっとした違和感とディストピアとデザインベビー。

人間社会は、進歩している。

考え方によっては、古代の精神は尊く、どんどん堕落した、というものもあるようだが、

そしてギリシャ時代のソクラテスやプラトンの存在を考えると、現代の精神はそうした卓越した人々を含むものではない、という気もするが、

そうした「特異点」、いわゆる「天才」や「メシア」的な人々は、これは時代に関係なくぽっと出るような気もする。

人と人が密接に、いわば暑苦しく、過ごす国、この「日本」。

西洋が個人の自我を追求する文化であるのは、キリスト教の一神教的性格からきているのかもしれない。「自らも自我を、一である神を見習って彫塑してゆく」という態度だ。

翻ってこの日本はどうか。個人の人生はすべてが個人だけのものであり一つの物語である(BY 河合隼雄)とは思うものの、その人生はやはり島国で、基本海が世界からこの「世界」を隔てた、精神的「ガラパゴス島」であるこの日本で生きることでの、自我というまえにやはり集団が来てしまう、ということに色濃く影響されざるを得ないものであるだろう。

まあ、あまり「自我」という意識が、普通日本で過ごしていると発達しようがない。発達させよう、というモチベーションも特に働かない。

それが、いいとか、いかん、というものではないだろう。仏教の「草木国土悉皆成仏」という感じ、あれでいくとこの島国にあるすべからくが、つまりは「仏」なのだから。

特に自らが仏教徒だ、と感じなくとも、こうした「全てが仏」という感覚の安心感をどこかすこしでも心の奥に持たない人はいないのではないか。それは「いいこと」もあるが、「べとべとした人間関係」が必須でついてくる点は、しかたないのだがちょっとしんどい。

「自我」というより「みんなというものを常に意識して、そことの調和を探る」ということが一番の重要事だ。すくなくとも私はそう感じている。

別にそうしたいわけではない。むしろその「へばりつく」感じがうっとおしくて、西洋的「自我」、「個人」に憧れる感じがある。

それは別に「みんなといっしょにしたい」ということではない。「みんながみんなという意識で相互監視しがちであるので、その点について面倒をさけるようなふるまいをし続けなければならない」ということなのだ。

だがそこには途方もない太平楽の認識前提がある。「この島国は侵略されない」。これである。

これは侵略されるかも。そう思ったことが明治維新を呼び、ロシアとの戦争で「辛勝」することを呼んだ。危機感が島民に共有され、伝播し、シンクロしたのだ。

だが、海はもはや国を守る堤防ではなくなった。

いまは「精神世界」を通して、島民は否応なく「グローバル競争」にひきづり込まれることになった。WEBである。

そのことが、すこしずつ、じわじわと、理解されつつある。だが、そこまで来ていない。喉元まで、来ていない。

だが、だいぶ来ている。喉ではないが、胸元くらい。

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日本語より、英語をどうしようもなく学ぶ(ここでいう「学ぶ」は本当に利用するために、使える形で「学ぶ」という意味だが)ことになるだろう。翻訳機能を利用するが、要は「もう日本語はあまり役に立たない」というあきらめが共有されることによる学びである。

もう外来語を日本語に変えよう、という意識はこの国にはない。日本語化することの利点は、日本語化すれば日本語話者(老人は困難でも初学者は)がすべて理解する可能性を持てることである。

要は「利他」である。他の日本人に役立つように。その努力を、もうみんながしなくなった。

だがカタカナ外来語では、一部の人には理解不能となる。勿論すっかり「人口に膾炙」すればいい。「コミュニケーション」とか。余談になるが私はだれかに「コミニュケーション」が正しい、というような指摘を受けたことがある。だが私は、日本語を話す国語話者であり、国語というものの性質を自分なりに理解するものとして、堂々と「間違いである」と指摘するものに、「私が使用した言葉ですがなにか?」と伝えた(態度で(笑))。

発音に沿っていないと外来語でない、というのはナンセンスだろう。できるだけ正しく写すことは勿論方向としてはいい。だが言葉は生き物、使う者が主体的に選ぶものだ。

自身の理解を押し付けるものに、我慢できない。その押し付ける理解をあなたはしっかり吟味したのですか?そういいたくなるのだ。

ちょっと思い出して熱くなった。

閑話休題、日本語が終わる話であった。

今は日本語話者は世界で10番めか11番めくらいではないか(うろ覚え)。思ったより多いのは、日本人の数がおおいからだ。

日本人が将来減れば、日本語は外国人にはほぼ学習不可だから(住んでいる人は除く)、話者数は漸減してゆく。

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言葉は選ぶもので、どうなるかに正しさはないのだ。

この社会で私が今感じている違和感、例えばいま急激に変化している「ジェンダー」については、いろいろあるが、いい方向に総論では行っている気がする。

要は「大多数が正」ということにみんなが疑問を持ってきたことがいいのだ。

いじめ、とは集団の基本線から外れた人物や行為で始まる。日本ではみんなが「いやいや集団に属さざるを得ない」。なので、常に明文化されないストレスを持っている。

「ああ、集団にいやいや属することは嫌なことだ。我慢しているのに、その集団にきちんと対応していないように思える他人には無性に腹が立つ」。

これである。

これがいじめだ。

自分が損している、と思うから、同じようにすべき他人がきちんと「損」を受け容れていないように見えると、「ずるい」「不公平だ」「排除しよう」となる。

いじめとはつまり精神的な「村八分」なのだ。

それで生きていけなくとも、「自業自得だ」。

そんな気持ちがインストールされている。民族的、文化的な負の精神的遺産、とでもいうものである。

アマゾンの部族でも、部族のルールに反するものは部族の居住区から追い出されて、さまざまな共有権利をすべて剥奪される。なんとか生きてはいけようが、飢饉や病気が発生すると一番初めに「死に至る」。

これはここ、大きな島国でも同じことだ。

けっこう、しんどい話である。

こうしたべったりした、しがみつきの生活が、すこしずつ、グローバル化の中で成り立たなくなる。あまり直近のことではない。これから200年位、かかるかもしれない。

だが、将来の地球は、アジアもアフリカも、ほとんど同じ精神を持つ人々によって住まわれていることだろう。

環境が整えば、人種の混淆も進む。基本子孫の能力は、「デザインベビー」だけになるから(これはもう、残念ながら後戻りできない。ゆっくりにはなっても)、客観的には「上がる」であろう。だがみんな「上が」ったら、その中での競争ではやはり金持ちが一番顕著に「高能力」となる。

モーツァルトの楽才。ダビンチの創造力。(多分白人の)俳優の顔で両親の好みで選ばれた顔、黒人の身体能力。エジソンやアインシュタインの頭脳。

こうした才能を併せ持った者が出現し、それは多分支配者層となるのだろう。

だが仕事は、「シンギュラリティ後の」AI宰相がすべてを取り仕切る。

多分1000年後はこんな感じだろう。その中に我々が紛れ込んだら、まさに古代種の珍獣として、電磁檻の中でさらされるのだろう。

いわば今の世代は「DNAフリー」で生まれた、最後の世代となるのかもしれない。

いやあ、なんだかディストピアである。そんな世界はちょっと、というかだいぶん嫌だ。

そうしたディストピアがすこしでもましになるためには、やはり精神の進歩が必須である。

人類にとって、望みが全くないわけではないだろう。個人の損得だけでいけば上記のようになる未来は、精神面での進歩をあきらめずに行うことにより、すこしずつましになる。

ある時点のちょっとした変化が、数十年、数百年、数千年レベルでいけばとてつもない違いとなる。

ディストピアが結構来そうだが、例えばジェンダーや村意識、といったものをきちんと見据えていい方向に消化してゆけば、ちょっとはましなディストピアになるのかもしれない。。

(デザインベビーは避けられそうにないですね。いまはそう呼びますが、多分将来彼らは自分たちのことを「真の新人類」「ミュータント(突然変異ではなく恣意的変化ですが)」などと自称するのでしょうね。。)


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