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日記5月20日(木)。 #日記  丁寧にしゃべる。

5月30日からの銀座シロタ画廊での銅夢展、どうぞよろしくお願い致します。(銅版画の展示です)

今朝は64.2kg、12.7%体脂肪率あるいは11.7%体脂肪率、でした(朝食前)。

先週末は63.5kgであった記憶あるので、少し上がってはいるが、雨模様であまり歩けていない場合はどうしても体重は上がる。

昨日と今日は雨模様。なんとはなく梅雨入りしたイメージだ。暖かくなってきたので、上はTシャツになっている。

丁寧にしゃべること。

敬語を子供の時からなんとなくしゃべることができた。特に学んだ記憶はない。皆さんはどうだろう。

“敬語をしゃべりなさい”いうときには、”自分に”なのか、別のだれかに(例えば顧客)なのかでその意味が変わってくる。

敬語をしゃべってこない相手に、自分への敬語を強要する、ということは、非常に残念なことである。そもそも相手を敬いたい、あるいは距離を置きたいのであれば、間違っていようがなんだろうが人は”敬語らしき”ものをしゃべる。間違ってはいても、プライベートであれば、その気持ちこそが得られたいものである。

相手が自身を敬っていないので、敬語にならないのだ。敬いたい人間である、と認定されていないのに、自分から”敬ってください”というのはおかしい。自分は敬われるべきものである、というむなしい、というよりは鬱陶しさしか感じない人格である、ということはわかる。

まあ、今後面倒なので、“敬して遠ざかる”つまりは面倒くさい奴認定する、という効果はあるだろう。

顧客であれば、敬語は仕事の一環だ。年令によりその若い時に得た言語経験が違うので、どのような敬語がいまスタンダードで、どのような敬語が”文法的には正しいとされているが、変化中”であるのかを知っておくのは大切かもしれない。

言語は変わるものである、というのが正しい認識であるだろう。よく新聞等で”正しい日本語”というコーナーなどをみることがあるが、この”正しさ”をきちんと検証したコーナーなのか、そこが”マウンティング””知らないのは無知”などというところからきていると、そもそもそのコーナーこそが”正しくない”ということになるだろう。

人は自分が慣れ親しんだものこそが究極の正である、と自然思いたいものだ。

私は神戸出身だが、大阪出身の人に”お前の言葉は変だ”と言われたことを、もう言われて10年以上になるだろうが、いまだに根に持っている。その人のことは許せない、というような感覚がいまだあるのだが、まあ、そのような感覚を持つことは自身にとって損なのだろうから、ここで書くことで成仏させたいところでもある。

話が逸れた。敬語のことであった。

自分が気が付くと敬語をしゃべることができるのを不思議に思っていたが、これはやはり自身の欲求として”人と距離を取りたい”があり、距離を取る協力なツールが言語特に敬語である、ということを小さなころから感じていたからであろう。

要するに、自分に得があるから敬語を人間関係コントロールの”技・テクニック”として知らず学んだのであろう、と思っている。

敬語とは思いを贈ることである。だが本心はそうでなくとも”贈られている”と言われた側が感じるものでもあり、そういう機能は役にたつのだ。だがどこか技巧・儀式めいたところがあり、嘘っぽい、偽善である、と言う感覚も同時にある。

親しきなかにも礼儀あり、というが、親しい中で礼儀を”言葉”で示すのではなく、”まごころ””しぐさ”で示すべきだ、と私などは考えるほうだ。

(言葉をテクニックとして使っているので、よけいにそうおもうのかもしれません。)

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豆象屋
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