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6月30日 地下二階からジワリと漂ってくる本質的物語について。

村上春樹さんは、小説を書くことは①体力を整え、毎日定期的に書く②事前にシノプシスやストーリーを考えず、自身の「地下二階」からジワリと出てくる物語を待つ、という2点であるとおっしゃっている(自分しらべ)。

川上未映子さんによるインタビュー集、「みみずくは黄昏に飛び立つ」P.145ではこうおっしゃっている。

結局ね、読者って集合的には頭がいいから、そういう仕掛けみたいなのがあったら、みんな即ばれちゃいます。あ、これは仕掛けられてるな、っていうのがすぐに見抜かれてしまいます。そうすると物語の魂は弱まってしまって、読者の心の奥には届かない。

ここでおっしゃっている「物語の魂」、これは上述の「地下二階」つまりはユングのいう集合的無意識、いままでのすべてが蓄積されたある場所、アカシア・レコード、まあ、なんといってもいいのでしょうが、そういうところから齎されるものこそが、ものだけが、本当の「物語の魂」を内包している、ということだろう。

私は昔から小説が好きであったが、ある時期からなんとなくつまらなくなって、どちらかというと「ノンフィクション」の方に流れた。そういうことはどこかで荒俣宏さんもおっしゃっていたように思う。博覧強記の翻訳家であり小説家でもある、あの荒俣さんがである。

フィクションがつまらない、というが、読んできたすべてがつまらないわけではない。例えば昔読んだファンタジー。指輪物語。ゲド戦記、ドリトル先生。ナルニア国物語。

どちらかというと、児童文学に分類される本に、そうした「物語の魂」のようなものがきちんと内包されている気がする。

小学生から中学生になって、いわゆる文庫本を読みだしたころ、私は上記の物語のような小説を探して濫読した気がする。そしてそれは容易には見つからなかった。

楽しめる本はなくはない。だがストーリーの面白さはあっても、その「面白さの消費」がおわると再読が難しいものが多かった。

河合隼雄さんの本を見ていて、河合さんは「大人の本」が面白くなくて、子供の本や神話ばかりを読んでいる、とおっしゃっていた。

このあたり、なにか通じるものはあるように、思っている。

そうはいっても、「物語の魂」が込められた(広義の)物語は私にとってもその後いくらかでてきた。

永井豪「デビルマン」「バイオレンス・ジャック」「凄ノ王」。

宮崎駿の全作品。

長野護「ファイブ・スター物語」。

まあ、他にもあるが「魂」というところで思いつくのはまずはこんな感じ。

ざっと眺めてみて、全てがどこか現実性から突き抜ける物語ばかりである。ファイブ・スターに関してはガチな神話と言えるだろう。

永井作品では、デーモンを通して異界と接続できる気がする。

そしてゲド戦記のアーシュラ・K=ル・グインがほれ込んだ宮崎駿という希代のストーリーテラーにして(人物を画面で真にアニメートする、という意味での)アニメーター。

そして忘れてはいけないのが、村上春樹作品群。


村上さんは言っている。「読者って集合的には頭がいい」。


これは、上記に上げた作品が長く残っているのを見ても、時代に晒され選ばれ残ってきた「古典」が素晴らしいことと、つながっているのだろう。

(私淑する哲学者、池田晶子さんが、「古典を読め!」とおっしゃっていました。さすが池田さん。。。)






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