執着。
執着とはなにか。
Q:では、わたしたちが最後に明け渡さなければならないのは、自我の核心としての自己ではなく、それに対する執着心でしょうか?
A:なかなかわかりやすい表現でいいと思います。個人的な”わたし”が存在の核心であり、生命と”わたし”という感覚の源であるという信条に対する執着が問題なのです。どんな妨げにあっても、その幻想を明け渡すことができたとき、”わたしである”という感覚さえも普遍的で非個人的な〈わたし〉に源を発していることに気づきます。それはあたかも、日光が自ら光を発していると信じていたのが、後にその光の源は常に太陽本体であったと気づくのと同じことです。
この気づきによって、おおいなる解放がもたらされます。
わたし - 真実と主観性 - デヴィッド・R.ホーキンズ P.436
個人的な”わたし”が存在の核心であり、生命と”わたし”という感覚の源であるという信条に対する執着が問題なのです。
ホーキンズ博士はこう述べる。
個人的な”わたし”が存在の核心である、と思うのは、個人的な感覚ではほぼすべての、いわゆる”ものごころがついた”のちの人間が持っている思いだろうと感じている。
もちろん個々に聞いてみたわけではない、のだが、まずはわたし自身がそう思っている。そして、そのことに基本的に疑いを持っていないし、そういう思いが問題である、という考え方があるということも考えていない。
ので、このホーキンズ博士の視点は、大変に新鮮であると同時に、
たしかにそうかもしれない、と思ったのだ。
昨日のブログで。
昨日のブログで、気持ちの持ち方に関するケン・ウィルバーのやり方と考えを参照した。その考え方と、こちらの考え方には、確かに通底するものがあると感じる。
どのあたりか。たぶん、わたし、というものを、切り離された、孤独な、孤立無援の、はかなく吹けば飛んで行き無となることを考えたくないが心のそこで激しくおそれているもの、と考えない、というあたりだろう。
そういう思いへの恐れから、対抗するためにしがみつく考え、というだけのものでは、それはたぶんないだろう、という感触もだ。
これは個人差があるのかもしれないし、例えば信心を持つ人は別の想いもあるのだろう。だが、取り急ぎ”私”はわたしのありかたとして、この”わたし”への執着と思っていないが実は執着であるところの執着に、気をつけたいと思ったのだ。
みなさんはどうお感じになるだろうか。多分、大事な考えどころであるような、
気がしています。
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