12月23日 背中のリュックサック。
創造の女神の後ろ髪をつかむ、という。
人の意識は様々な情報・情景・気分・環境で当然に影響を受ける。
そして、意識していることは、無意識にその答えを日々探し求めている。
これがセレンディピティを生むのだ。
セレンディピティ(英語: serendipity)
「serendipity」という言葉は、イギリスの政治家にして小説家であるホレス・ウォルポール が1754年に生み出した造語であり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの3人の王子 (The Three Princes of Serendip)』という童話にちなんだものである。セレンディップとはセイロン島、現在のスリランカのことであるから、すなわち、題名は「スリランカの3人の王子」という意味である。
引用:WIKIPEDIA
特に目標・テーマ・やりたいこと・知りたいことがないと、その”セレンディピティの触覚”が働かないのだ。
セレンディピティとは、日常生活で思わず出会った奇跡のような事象をいうのだが、実は気を付けていて初めて発生する事象でもあるのだ。
これはセレンディピティの語感がもつ偶然性とは相反する条件のようであるので、意識することが重要だろう。
今日勝間和代さんのメルマガと読んでいて、”背中のリュックサック”という表現を知った。
作詞家や脚本家が、日々の事象をあたかも自身の(目に見えない)リュックサックに放り込んでいって、将来の自身の創作・創造の食材とする、という発想である。
これはなかなかいい。
まずは背中に見えないリュックサックがいつもあること。
見えない、つまり実際のものではないが、そういう意識があるとあたかももののように事象を継続的・永続的に探し続け、集め続けることが出きる。
私はつい本を買ってしまって、読まないのだが、”将来読んで役にたちそうやな”と思うと買ってしまう。
で、実際に”ありゃ、前にこんな本買うとったんか”という感嘆とともに、ペラペラとめくることもある。
通読の効用はここにもある。無意識に視界の端にそのタイトルが見えていることで、何年、何十年と意識のどこかに置いておくことができる。
これが明確な、電子書籍とリアル本の差異であろう。
いやいや、本そんなに買うたら、目に入るところにおききれへんやろ。
そうなる。
うちもそうだ。
その場合は、驚きとともに、本の地べたに積んだ山をたまーーーーーに眺めるときに
”おお!自分グッジョブ!!前に今欲しいなと思っているこの本買うとったやんけ!!”となるのである。
これが楽しいのだ。
忘れていればいるほど、驚きとともに楽しい。
そこでおもむろにぱらぱらやるのもよし、なんとなくそのタイトルを覚えるのもよし、そしてすぐにそのタイトルが忘却の彼方にいってしまうのもまたよし、である。
再び新鮮な驚きが、地面に積まれた本を見るだけで、得られるのである。
あ、幻のリュックサックのことであった。
まあ、実際は記憶容量は結構少ないので、メモすることが多い。
時間がないと、きっかけの言葉だけでも、想起することは可能だ。
(想起不可能なときもあるが)
で、なんとなく、貯金が捗ったように、自身が将来よき思い付きを得るかもな、という嬉しささえ得られるのだ。
これはもう、なんともうれしい。
今後も本をかって、幻のリュックにいろいろ放り込んで。
いきたいと思っている。
(忘れることが怖いですが、リアルなメモや本は、実際に接することで想起できることがおおいですもんね。。)