日記12月26日。 #日記
年賀状がなかなか作成できない。
このようにエックハルトにとって「存在」は、我々にとってのようにこの上なく空虚なものではなくて、測れないほど豊かなものであり、「自らによって豊か」(dives per se)である。「存在する」ものになる人は、そもそも存在の充溢の豊かさに踏み込むのである。たとえばエックハルトはこうも言っている。
我々は「存在者」(Wesen)を、それ自身においてあるような、裸で純粋な存在として把握する。その時には(まさしくその純粋な存在性のもとにある時には)存在者は認識や生よりも高い。なぜなら存在者が存在者であることによってこそ、それが認識や生を持つのだからである。
ルドルフ・オットー 西と東の神秘主義 P46-47
紙の年賀状が年々減っているという。さもありなん、である。WEBであればそもそも住所を印刷(場合によっては手書き)しなくてよいのである。これは楽だ。
電子である、ということが、上記のわずらわしさを避けるショート・カットなのだとしても、電子で受けとる年賀の思いの軽重は、受け取る側の世代で異なるだろう。ある程度、たぶん会社員の方が接する仕事上のTOPが部長程度であれば、たぶんもう、電子は失礼、という思いはないのかもしれない。ただ、業務ではお互いにメールアドレス(プライベート)が分からない。なので仕方なく紙で出す、という方もおおいだろう。友人同士であれば、新聞やTV同様ほぼもう電子なのではないか。
ずっと、プリントゴッコで年賀状を作っていた。もう、消耗品は買うことができない。プリントゴッコの原理は孔版なので、或る意味版画作品として作っていたのだが。仕方なく、元絵を描いて、コピーしている。
オットーの言を借りれば、われわれは普通存在を空虚なもの、と思っているということだ。たぶん、合っている。意識していなくとも、こうして生きていることは、死と隣り合わせ、どこかで基本ぶつっと切れる、そんな風に思っている方が多いのではないだろうか。
だが、生まれてしまった、生きている、死ぬまで生きるしかない。
そんなあきらめにもにた思い、これをオットーは空虚、と評したのかと思う。
だが元気をだせ、存在とは豊穣な、すばらしい体験だ、とオットーは言う。
これはたぶん、こうして言ってもらわないと気付けない、なぜだか気づくことが出来にくい、感覚であるからのようだ。
池田晶子さんも、生まれて生きていることが奇跡のように不思議なことだ、これに比べれば幽霊や怪異現象があるのかどうか、というのはささいなことだ、とおっしゃっていた(著書で)。
このあたりも、オットーがいうように存在が存在しているすばらしさを知ること、と近いのかもしれない。
あ、冒頭で書いた年賀状、今この日記を打ちながら、横で印刷しています。
なんとか間に合いそうでよかったです。
(このnoteでは、挿絵のように、あるいは装丁のように冒頭に画像が入れられるのが楽しいですね。文中に画像を張り付けるのとはまた違った感触です。今日はいま作っているスフィンクスの銅版画蔵書票の一部をアップで入れてみました。拡大してしまったのでわかりませんが、蔵書票にはラテン語の箴言を入れる場合がありますので(昔の蔵書票に多いでしょうか)、今日の日記で述べた(自らによって豊か=dives per se)を画面に入れています。もとよりこの言葉がラテン語なのかも確実ではない、酔狂の自己満足ですが、楽しいですね)