5月15日 制服嫌い。外見全コスプレ主義。
制服、つまり「この集団に属するためにはこの制服を気うことが条件である。」ということを体現しているものが、昔から嫌いだった。
押し付け、が異常なくらい嫌いだった。学校で一番嫌いな科目は「道徳」。
押し付け、考え方の強制。これがいやだった。
多分、私は自分の精神だけが自分のものであり、世間で生きる、という意味は「いやいやそのルールを知り、自分のできる限り従う事」である、と小学校4年くらいから思っていた。
で、それはすごく嫌だし、苦手なことだ、と認識していた。
「自分はみんなが息を吸って吐くようにやれている、世間のふるまい、が意識しないとできないようだ。頑張らないと生きていけない。だががんばるのはとても疲れるので、精神世界だけでは自由に、徹底的に、誰に文句も言われず、やっていこう。」
それもたぶん小学4年くらいで思っていたことだ。
転校した市立小学校で、制服っぽい服があり、みんな着ていた。公立なのになぜ制服が、と思い、「これは着ないといけないんですか」と先生に聞いた。
いや、別に、と言われたので、制服を着ずに卒業写真を撮った。着ていないのは一人だけだった。
会社員になったらスーツである。
いかにも「嫌なものだけれど、着ないといけないから着ている」と語っているように見える。
強制の塊に見える。
今はスーツも、夏はジャケットいらない、ネクタイは通年いらない、というのが普通である。
だが、私は真夏でもスーツを着て、ネクタイをしている。
なぜか。
「着ていてもルール違反にならないが、基本は着ない、締めないのがルール」になったからだ。
つまりは「強制でない制服」になったからだ。
だから喜々として着ている。チーフをして、前ボタンは必ずとめている。
そんなことは普通の会社員は誰もしていない。
だからやるのだ。「強制されているように擬態できる、むしろよりフォーマルと勘違いされる制服のようで制服でない服」であるからだ。
あと、美的にも、ネクタイがないシャツの襟はどう見てもカッコ悪い。
酔っぱらって、だらしなく地面で寝てるおっさんを、見るたびに想像する。
そうであればTシャツのほうがいい。
つまりはスーツを着つつ、毎日「007コスプレ」をやっているのである。
会社でコスプレ。
擬態できるし。
いうことがないのである。
守破離、というと、物事の極意であるように聞こえるが、
卑近ながらも、その構図には入ってはいる、と思っている。
(コスプレは楽しいですねー。筋トレもちょっとコスプレ感あります(笑))