11月19日 ルッキズムと離脱。
勝間和代さんのメルマガで、ルッキズムについて考える機会があった。
ルッキズムをけしからんと思う気持ちと、ルッキズムに取り込まれていることとはたぶん同義だろう。私自身、見た目で判断してはいけない、と思っている時点で、自分が人を見た目で判断していることに気づいているのだ。
勝間さんは、少ない情報の中で見た目は一番得やすい情報であるので、人は自然に見た目から無意識に色々生き延びるための判断を引き出そうとしてしまう、とおっしゃっている。つまりは生き残るための本能的戦略である、と。
そうなのだろう、なので声高に“ルッキズムはいかん!“と叫んでも、その声は“本能やのに何ゆうとるのか“という心の声にかき消されがちなのだろう。
なので、これはもうある程度は仕方がない、と割り切って、できるだけ自身で納得できる範囲でルッキズム対策を取っておき、初期判断のハードルを超えた時点で中身で勝負しよう、というご意見だと理解した。
具体的には、清潔、無駄目立ちしない、など。
目立ちたい時は、何かを外部に発信したい時である。服や車などはその典型であろう。
だが何か億劫である。
例えばこの数日引用しているエックハルト。彼ならこういうかもしれない。
離脱せよ、と。
離脱が誤解を生みやすいのは、例えば世俗に属するものを放擲して、例えば金や財産や家庭やらを、だが、その“捨てたこと“や“捨てた自分はすごい“という、そして“こんなに捨てたのだから見返りがあるだろう“という気持ちになりやすいところだ、という。
よくあることだ。
こんなにやったのだから、報われるだろう、というやつ。
この気持ちは、端的に“さもしい“と感じる。
神はそんなところにはいない。
お布施をたくさん入れたからたくさん報われる、と思うのと、本質は何も変わらない。
それであれば、例えば身近な些細な一品を意識して手放してみる。誇るわけではなく、自然に導かれて。
そういう“離脱“の仕方こそが真の“心を空にしてゆくこと“へと繋がるのだ。
心を整え、空となった場所に神を迎え入れる。同化する。
神は真実である。世界は真であるが真実ではない。そこで同化、一体化する。
この辺りは結構むつかしい。人格神やドクサまみれの“神“の語を思い浮かべると或いは誤解し混乱するかもしれない。
そこでいう神は、あまり因果応報の一神教的神ではないのかもしれない。もちろん全である神はそういう神も含むのだろうが、まあ本質ではない、という。
ルッキズムに本能から、或いは生きるための自動発停装置である“エゴ“により、陥った自分を、“放下“し“捨て“て、離脱する。
そんなやり方でしか、ルッキズムには対抗できない気が、している。
(ルッキズムの囚われている自分を客観的に見ると、あんまり気分よくないんですよね。でも囚われている部分は払拭しにくいですねー。。。)