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日記12月15日。 #日記

実学と虚学。

昨日高速道路のサービスエリアでボルゾイを見た。

昔から、犬が好きだが、それは身近で飼っていたから、ということ、母親が犬好き(というより動物好き)で道で犬に出会うとなでるので、それを見て育ったこと、などがあるように思う。

祖母宅(祖父もいたがなぜか祖母宅=”おばあちゃんの家”と子供時代は呼んでいた=初孫だった私をかわいがってくれたためだろう)にも犬がいて、雑種、ピンツェル?の2匹が順にいた。自分の家でははじめはマルチース、次にシーズー2匹、であった。

狭い家なのでやはり小型犬となるが、小学校時代はコリーが大好きだった。どうにもあの鼻筋が好きなのである。ノーブル、という言葉はあの顔つきと共に思いだすものである(個人的感想です)。

類似の顔つきでいくと、ボルゾイがいる。あの湾曲した鼻筋と、訴えかけるような黒目がちというか、黒目ばかりの眼がいい。コリーもボルゾイも大型犬、日常生活で出会うことはまれであり、個々の出会いは個別で思いだすことができるくらいだ。

昨日のボルゾイも気品にあふれていた。なんとなく飼い主が”飼わせていただいている“感もある。顔に加えて、あの姿も、まさに”アルテミスの猟犬”という言葉通りである。両種の顔を思い浮かべてなんとなく気分よく通勤していたが、ほかにもよく似た顔があることを思いだした。馬、である。馬ずら、というとどちらかというと馬鹿にした表現だが、よく見るとあの濡れたようなまなざしは、コリーやボルゾイとも似ている気がする。

どうやら人間でもあの系統の顔が好きなようだ。人の顔では鼻筋が気になってしまう。できれば正面から見て、鼻孔が見えないのがよいのだが、どうやら我々日本人にはなかなかそういう方には出会えないようだ。

冒頭の実学と虚学。虚学という言葉があるのかどうかはわからないが、現在は”大学で卒業後すぐに実際の稼ぎに直結すること”のみを実学といって称揚し、それ以外を志す向きは、”役に立たない無駄な税金泥棒””無駄飯食い””生きることをなめているけしからん輩”という風に政府は見ているようだ。

昔から、文学部に行きたいといえば、就職できないからやめておけ、ということになっていた。できれば理系にしろ、とも。文学部が第一志望(落ちましたが)であった私は、初志貫徹できず就職できるといわれた法学部へ行った。就職はできた。それは、最終的には、自分で”生きるために稼がねば”と決めたとは思っている(理系科目があまりにもできなくて(=数学は答えを暗然たる気持ちで暗記)、文転となりましたが)。

そのことは残念だが、仕方がないのかもしれない。先般から引用するチャップリンの名言、”愛と勇気とサムマネー”の伝でいけば、サムマネーも稼げないのがデフォルトだ、余裕がない、というのが基本的な世間の思いになった、ということなのだろう。

本当は、一見無駄のように見える時間が、豊穣な果実を生む、と思ってはいるのだが、ことさらそれを言い募ることが困難な、時代であるのだとも、感じている。

(いやあ、文学部、行きたかったなあ。いまだそんな思いが成仏していないから、こうして note などを書いているのかも。趣味で好きに書けるのは、逆に幸せなのかもしれませんね)

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豆象屋
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