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一度死んだから言えること!

◎新しい病院

介護タクシーにストレッチャーごと乗り込み、2人の息子に見守られて真冬の空の下を新しい病院へと向かった

期待と不安とはよく言ったもので、まるで新入学の学生みたいな気分だった。少し長い道のりだったが、3ヶ月振りの外出は嬉しかった。何より2人の子供に会えたのが堪らなくて、皆んなで手を握りしめて泣きました。

この日記には泣く場面が多いけど、やっぱりどこか壊れていたのかもしれませんし、感情が不安定だったのでしょうね〜

でもあるがままを書いています。出来るだけ思い出し、家族からの情報と合わせてね。

そんなこんなで、色んな思いが走馬灯のように駆け巡りながら、気づくと新しい病院へと着いたのです。

典型的な中級クラスの病院で、内科と整形外科がメインで、月に何回か外部から耳鼻咽喉科やら皮膚科の先生がやって来るシステムだ。よくあるやつ(笑)

リハビリは1日4回で3ヶ月で退院と聞いていたのだけど、どうやらそれはリハビリ病棟のみで、私が入ったのは2階の療養病棟でした。

そこは1日2回のリハビリで、3ヶ月で退院とは行かないとわかりました。ガッカリしました。2月の転院時点では8月に退院できたら良いなぁみたいなものでしたから( ;  ; )

ちなみに療養病棟とは、いわゆる寝たきりの患者が入院している病棟で、意識があったり会話できたらマシって場所ですぅ。

殆どが会話もまともに出来ませんし、身動きも出来ません。マーゲンチューブとカテーテルの排尿とオムツで半年から3年くらい入院して、回復する事なく時期が来たら別の病院へと転院して行きます。

私が勤務していた頃は、老健や特養では無いので長期入院だと点数が付かなくなるから、関係病院で回しながらやりくりしていました。多分似たようなものでしょうね。

なので、私の病室で一番元気なのは【私】と言う状態で、その他には唸るか叫ぶだけの中高年が4人と、会話ぽくなんとか応対をしている20歳くらいの若者が1人いめした。(この子が3年もいる古株でした)

それが、あのウイルスによって疲弊した私が、これから回復を目指す場所なのです。まぁそこしか受け入れられなかったので、ゆあんさんが本当に良かったのか?とずっと心配していました。

ではなぜ療養病棟だったのか?と言うと、表向きは糖尿病を併発していたからと合う説明なのですが、あのウイルスの実体がわからないから、隔離の名目もあってそこへ入れたようです(笑)

この病院でもあのウイルスの情報は無くて、皆んな恐れているばかり。スタッフはワクチンを打たないと勤務も出来ないので、仕方なく3回目を打っていました。

さぁ後半戦の始まりです。ここでも奇跡を起こして駆け抜けて行きます。涙ぐましい努力と笑いを起こしながら、自他共に幸せを目指して(^^)


続く

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