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一度死んだから言えること!

◎ここはどこですか?

気付くとその部屋にはベッドをパーテーションで区切って、男女関係なく多くの症状の患者さんたちが、その部屋には詰め込まれていたようでした。お世辞にも静かだとは言えず、それぞれのが看護師に文句を言っている声が飛び交って、私は私の苦痛と向き合っていました。

「お腹が空いたから飯を食わせろ!」「個々の飯は不味いので家から届けさせろ!」と何度も言ってるおじさんや、「私を誰だと思っているんだ!ここから出たらただじゃすまないぞ!」と脅している男性や、「痛い!痛い!こんな大きなヤケドをした私に、なぜもっと薬をくれないの?」と猛烈に抗議しているおばちゃんの声などが、私の周囲から飛び交っていました。

なぜ記憶があいまいなのに覚えているか?と言えば、私にとって24時間飛び交う声そのものが苦痛だったからで、その苦痛に対して誰も何もしてはくれなかったからです。まして私は声も出せず体に全然力が入らないので、外から見ていると、ただただおとなしく寝ている患者と見えていたようでした。

そんなうるさい人たちも一般病棟へと移され、私の周りはでは私だけを残して、いつも人が入れ替わっていました。その部屋は四六時中明かりはついたままで、看護師さんたちも忙しく動きまわっていて、まるでER専門病院並みの緊急体制でした。

そんな中で、私は苦情を言わない、いや言えない私は度々放っておかれていました。「このやかましい場所はどこですか?」と聞きたいのに、聞けないので誰も教えてはくれません。声の出ない私の苦痛は一般病棟へ移ってもリハビリ病院に転院しても、ずっとついて回っていました。

このころの私は記憶があいまいなくせに、何故か物分かりが良いと言う、変な自分なのにそれすら自覚してませんでした。周囲の患者さんたちのように自我を丸出しにして、苦痛を訴えると言った考えもありませんでした。

たぶん・・・たぶんですけど薬をいっぱいっぱーい体に入れちゃうと、正常な思考が出来ないというか、考えることもなく、そのまま受け入れるって感じでした。

二年後の現在では、多くの人がアレを何回も摂取してる状況を見ていると、もしかしたら同じ理由だったりしてと思ったりするのです。

実際に、生死を彷徨った一月半の間に、現場ではコロ助とわかっていても専用の処方薬はなく、あくまでも出ている症状を鎮静化させる、いわゆる対処療法のみでした。

そのやり方ってインフルエンザの治療と同じで、根本的な解決方法は無いんですよね。あくまでも出ている各症状に対する対処療法のみなんです。

あくまでも私見ですが、入院中に得た情報から考察すると、当時は病院内でもコロ助の実体も感染経路の把握も何もなくて、すべてが不確定なまま病院関係者も新聞やテレビの情報頼りという感じでした。そしてその関係者自身も恐れ問える人と、どうな思っていない人と別れていました。

なぜか?・・・このコロ助が直接原因で死ないからです。

私が居た人工呼吸器に居た人たちの中で当時最も最悪な状態の人は私くらいで、人工呼吸器に繋がれても多くの人たちは、数日から1週間程度で離脱して行ったと、ゆあんさんが担当医から説明を受けています。

後に一般病棟に移されて元気になってからも、あれだけ医師会も談話を発表している割には、正確な情報やから流れてくるようなこともありませんでした。みんなが手探りの状態で、このウイルスと戦っていたのです。

ちなみに、ゆあんさんも私の症状説明は受けていますが、コロ助そのものの説明は無かったといっています。特化型の病院だと言われていたのにね。

「ここはどこですか?」
「ここは何の病院ですか?」

そういった中で目覚めた私の闘病生活は、副作用との闘いへと進んだのでした。


次回は"妄想の日々"です。






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