望まない延命をさせる家族に罰則をへの危惧

SNS上で『本人の希望ではない延命をさせる家族』という言葉を目にして

胸が塞がる想いがしました。

以前、テレビの特集でも、家族が過剰な延命を申し出ているというような内容に取れるものがあり、その時も同じ不安を感じました。

罰則を決めれば解決するという意見を目にしました。

虐待、犯罪という言葉…

確かに、本人が望まないことをするべきじゃないし、本人の人生です。

ただ、家族も衝撃を受けて混乱している。

犯罪、罰則という言葉で責めるより、家族を支える人が必要なんだと伝えたい。

家族の立場から、想いを書いてみたいと思いました。

【選べるなら、今、死にたいと言った夫】

夫が告知を受けた時、大変厳しい状況とともに、

『完治は望めません。治療は延命であると考えてください』と言われました。

「死を選べるなら、今、死にたい」

夫はそう呟きました。

治る見込みがないことをすることは、延命。

死を選べば自殺か安楽死…

「終末期鎮静が受けられるくらいまで、悪くなればいいんだ」とも本人は言いました。

治療を勧めることは、本人の意志には反している。

その中で家族で話し合いました。

夫は、自分が先立つことで、家族が悲しむ日を少しでも先にすることが、自分が家族のために出来ることであると、抗がん剤治療をすることを選びました。

本人にも家族にとっても、光の見えない選択でした。

【私は狂ってしまった】

夫が治療を受け入れたという決断の辛さは身に沁みました。

生きていてほしい。

私に出来ることはないのか。

必死に探した先の「あきらめない」「がんが消えた」という言葉に

私は溺れていきました。

本人が望んでいない民間療法をやらせてしまった私は狂っていました。

愚かだと言われてしまえばそれまでです。

生きていてほしい。ひたすら、その想いでした。

SNSの中に

「本人の意志に反する治療を施すことは虐待だと思っている。
いつか犯罪と認知されて、撲滅されてほしい」

という言葉をみつけました。

息が止まる想いがしました。

虐待、犯罪と言われてしまえば、返す言葉もない。

愚かなことをしたと思います。

ただ、家族の立場で愚かなことをしてしまった後悔を抱えている私から伝えたいことがあります。

家族も衝撃を受けています。冷静な判断ができる状態ではないのです。

そこに罰をあたえるより、暴走を止める支えが必要なんじゃないかと思うのです。

まわりから「あなたが支えてあげてね」と何回も言われました。

私が助けなくちゃと抱えました

孤独だったのです。

支える人を支える存在がいれば、それも友人とかではなく、共に考えてくれる医療者に繋げることで防げることなんじゃないかとも思います。

罰で制限することは、苦しみにしか繋がりません。

家族が取り乱し、過度なことを言い出したら、なぜ、そうなってしまうのかを聴いてほしい。

充分に気持ちを話し、泣ける場所すら失っていることに視点をむければ

罰とは違う方法が見えてくるんじゃないかと考えています。

【いつか夫が旅立つ日が来ることはわかっていた】

病気の厳しさから目をそらしていたわけではありません。

だからこそ、夫とは、終末期についても、何回も話していました。

最後は自宅で

そう決めていました。

在宅看護の時期を迎え、いよいよだと思う中、想定していなかったことが起こりました。

激しい呼吸苦と、身の置き場のない痛み

訪問をしてもらっても、楽にすることはできませんでした。

想像以上に壮絶なものでした。

その後、医療者のアドバイスもあり、夫は病院で最期を迎えることになります。

病院に移したことを、「看護に音をあげた」という見方をされたこともあります。

冷たい家族だと。

夫も私も、転院することで、たくさん話をする時間を持てました。

あの決断はよかったと思っています。

それでも、もしかしたら、私のことを思い、彼は病院で最期を迎えることを受け入れたのかもしれないという気持ちも消えません。

どんなに覚悟していても、その時を迎える時に、激しく動揺します。

私も家族も「死なないで」と取り乱しました。

そんな中、「助けて」と言うことは虐待なのでしょうか。

そして、家族が言ったからといって、それを、そのまま受け止める医療者は少ないとも感じています。

私の場合、その時には、何回も、医療者に、現状と、今、夫にとって何が一番大切かを丁寧に説明していただき、別れを支えてもらいました。

もし、過度な延命があるとしたら、このような支えに出会えなかっただけ。

誰もが、支えられる人に繋がるようにすることが大事なんじゃないかと思うのです。


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【母の命を決めたのは私】

母は、火事で亡くなりました。

報せを受けて、駆け付けた病院でいきなり言われたことは

「10分以内に、生命維持装置をつけるかを決めてください」というものでした。

火事になるなんて…そんなことを想定なんかしたことはありませんでした。

たった一人残された待合室で、母のことを一生懸命に考えました。

母は、機械に繋がれて生きたいとは思わないだろう。

それが決断の基です。

生命維持装置をつけるかどうかの時、医療者と相談する時間もありませんでした。

たった一人でした決断を、私は、あれでよかったのだと思うと同時に

私が、母の命を終わらせたのだという想いを抱え続けています。

「幸せな最期」

そういう観点からは、母の最期は幸せではありません。

でも、母は彩のある人生を生きてきました。

その時点で、生命維持装置をつけることを選んだら、虐待だったのでしょうか。

決断は、身を切るようなものでした。

【初めて終末期鎮静を決断した義父の場合】

2011年、肝細胞がんであった義父を家で看取りました。

せん妄も出ていて、肝臓の場合は、主訴は痒み

痒みには抑えようがなく、家族はひたすら身体をさすり続けました。

医師から、終末期鎮静の話が出ました。

当時は、まだ、終末期鎮静の意味がわからず、家族は大激論になりました。

私の息子は、医師に「殺すのか」とつかみかかりました。

終末期鎮静はしない。

そう結論を出し、数日を過ごしましたが、義父が痒みに苦しむ様子をみて

義母が叫んだのです

「もう、やめて。楽にしてあげてほしい」

これは、義父と話し合って決めたことではありません。

家族の決断です。

家族が悩み、義父が痒みに苦しみ続けた数日間は、家族が延命を望んだことになるのかもしれません。

もっと、はやく決断すれば、義父の苦しむ日々は少なかったことになります。

それでも、別れを受け入れるには、時間が必要だったのです。

【医療者が不在だった】

母の生命維持装置の時も、義父の終末期鎮静の時も、話し合い、悩む時に医療者がいませんでした。

私は、昨年末、『人生会議』の啓発ポスターに意見書を出したことで、注目を浴びてしまいました。

最期の時、どんなに話し合っていても割り切れるものではないと思っています。

取り乱します。

永遠の別れなのですから。

大切な人なのですから。

その時に、医療者が、冷静になれない家族に状況を説明し、共に考えるというACPの大切な要素が、人生会議のポスターでは伝わらないと思いました。

決めておけば幸せな最期を迎えられるという内容に違和感も感じました。

幸せな最期ってなんなのか

冷静な判断をする家族が愛情があり、取り乱す家族は愚かなのか。

その言葉が、最期の時に優劣をつけてしまうのではという不安も感じました。

【人の決断にジャッジをすることへの不安】

私は、母に生命維持装置をつけない選択をしましたが、もし、患者が我が子なら、10分で決断することはできなかったんじゃないかと思うことがあります。

奇麗ごとではない感情です。

それでも、生命維持装置を付けた後、どうなるのかを医療者と共に考えれば、少しは落ち着いて現実をみつめるだろうとも思います。

私はスキルス胃がんという難治性のがんの患者会代表をしています。

幼子がいる患者さんの場合、「意識が無くても、呼吸をしているだけでも、この子を親のない子にしたくない」という患者本人の強い希望を聴くことは

少なくありません。

最期まで、かなり辛い思いをして闘い抜いて、その後、家族が、本人の意志を受け止めたことを後悔している事例もあるのです。

本人の意志を受け止めてもあげたかった。

でも、もっと、おだやかな日々を送らせてあげたかった。そういう想いを背負っている遺族もいます。

【家族は第二の患者と言うけれど】

家族は第二の患者と言われますが、家族への主治医はいないし、

思い返せば、ずっと孤独だったし、耐えて、頑張ってきました。

本人の前で涙は見せたくない。

トイレやお風呂の中で、声を殺して泣きました。

夫とは、終末期について、たくさん話しました。

この人がいなくなる。

いなくなることへの恐怖。

それは本人には話せませんでした。

患者本人は、病気、治療、命を見つめることで、とても頑張っているのだと思います。

代わってあげられないことは、何よりも辛かった。

遺族になってからも、本当はどうしたらよかったのかを問い続けています。

【人の決断はそれぞれ】

大切な人の最期を目の前にして、取り乱す人を、誰も愚かだとは言えないと思います。

不必要な延命を口にするかもしれない。

死なせないで。

生き返らせてほしい。

その時に、当事者だけに背負わせないで、共に医療者がいてほしいのです。

共に考えて下した決断は、それぞれの人生、背景によっても違うのだと思います。

命だからこそ。

自分の周りの人と、「決める」目的ではなく、たくさん、いろんなことを話しておくことが大切なのだと思います。

それは、人それぞれです。

過度な延命を望むのは、「家族」なのだというレッテルを貼らないでほしいと願います。

取り乱してもいいんだよ。その時は、ちゃんと医療者も共に考える。

そうやって支える社会になることを願っています。


全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。