ひとりで生きていくのに必要なことは、運転から学んだ
今日は、とてもいい天気。
用務のために、車を運転しながら通りかかった街並み。
以前、夫の運転で、助手席から見た光景でした。
鼻がツ~ンとしました。
今、私は運転している。
あの日々を思い出しました。
【スカイライン】
バブル世代の私たちは、免許を取るのが当たり前で
『アッシー』という言葉もあるほど、車を運転している大学生が多かった時代です。
実家には車はなかったのですが、お付き合いしていた夫が車好きで、JAPANというスカイラインに乗っていた夫に、免許取得後は運転の特訓を受けました。
パワステもなく、オートマティックは珍しい時代でした。
でも、やはり、助手席は心地よい。
いつしか、私は助手席で、地図を見ながら、ナビゲートする役目になりました。
結婚後も、車好きの夫が基本的に運転していましたので、私はペーパードライバーでした。
一度も高速道路を運転したことがない私。
まさか、後に、いきなり首都高に乗ることになるとは想像もしていませんでした。
【人生の最後はツーシータ―のオープンカーで】
車好きの夫とは、子育てが終わったら、キャンピングカーであちこちに行きたいねと話していました。
もうすぐ、そんな日々がくると思っていた時に、夫はスキルス胃がんになりました。
キャンピングカーの未来は消えてしまったのです。
そんなある日、夫が私に言いました。
「きっと、これが僕の人生の最後だと思う。
だとしたら、コンバーチブル(オープンカー)に乗りたい。」
これも、人生会議の一コマだと思います。
通院に使っていた車を、夫の願いでコンバーチブルに変えました。
人生の最後
そう心で受けとめることが、どんな思いなのかは図り知れません。
私は辛かった。
嬉しそうに運転している夫の隣で、
最後…最後…と胸が締め付けられる思いがしました。
【初めての高速は首都高】
夫がスキルス胃がんになり、治療を求めて、転院を繰り返しました。
医療用麻薬を使うようになった夫は、とうとう運転ができなくなりました。
当時、夫が通っていた、そして、最期を迎えた病院は、わが家から車で2時間近くかかる病院でした。
通院するために、私がハンドルを握ることになりました。
高速道路を初めて運転する。
それも、なんと首都高速。
助手席の夫は、それこそ命がけだったと思います。
私も、運転することから逃げる選択肢を持ちませんでした。
【ひとりで生きていくのに必要なことは、運転から学んだ】
時折、助手席の夫が大声で叫ぶくらい、私の運転は危なっかしいものでした。
当時、必死の私は、まわりが見えておらず、何が危険なのかも自覚しないまま、とにかく、やるしかないと必死で運転しました。
その時に、夫が常に助手席から叫んでいたこと。
*自分がどこに向かっているのかを、常に頭に置く
*360度、周りを見渡し、自分が全体の中のどこにいるのかを把握する
*行くときは行くと、わかるように意思表示し、GOだと思ったら躊躇わない
*遠くを見ろ
今、私は一人で生きている。
活動の中でも、自分が決断する場面がいろいろある。
その時、図らずも、この言葉が、私の決断の礎となっているのです
【今日も、ひとりでハンドルを握る】
車と私の付き合いには、いつも夫がいました。
夫を喪い、今、助手席に乗ることがなくなった私は
今日も自分でハンドルを握っています。
夫からは、自分がいなくなったら、車は処分していいと言われていました。
処分できず、カーステのCDすら変えられず、そこから2年が過ぎました。
夫の三回忌が終わった時、私は車を変えました。
自分の車を、初めて買いました。
ここからは、自分の足で生きていこうと踏ん切りをつける意味がありました。
今、あの危なっかしかった私が、車を買い替え、一人で運転していることを、夫はどう思うのかな。
ナンバーは夫の誕生日です。
ひとりで生きていくことは、時に寂しい。
なんだか、首都高を走っているみたいな数年間でしたが、少し、まわりが見えてきたかもしれません。
そして、アクセルを踏む時は、躊躇わない‼
全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。