トンネルをポンと抜けた気がする
今日、とても丁寧なインタビューを受けました。
患者会活動を始めたのが2015年3月。
たくさんの方に、話を聴いていただく経験をしてきました。
インタビューを受けるたびに、日々を正確に振り返る必要があります。
それは、時に、追体験のようになり、辛いこともありました。
でも、話をする、考えていることを書くことは、普段、意識していないことに気づくきっかけにもなります。
記事になったものを読むと、客観的に自分たちのことを振り返ることにも繋がります。
有難い体験であると思っています。
ちょうど、6年前の12月に夫がスキルス胃がんの告知を受けました。
その時から、私は、ずっともがき続けてきたように思います。
今日のインタビューを終えた時、なぜか、トンネルの向こう側に出たような気持ちになりました。
そんな自分が嬉しくて、今、ここに書き留めています。
【夫の想いを知ったのも、インタビューだった】
インタビューの形式にもいろいろあることを経験しました。
*あるトピックがあり、そのために経験や意見を求められる場合。
*家族として見てきた夫のことを話す場合。
*インタビュアーがこちらの話を聴きながら、不明なことを質問しつつ、全体を掘り下げ、そこからテーマを見つけて記事にする場合。
特に3つ目の形式の時、自分たちも意識していなかったことが明らかになっていくことがあります。
夫が旅立つ1年前だったでしょうか。
自宅で、二人でインタビューを受けた時、私は初めて、インタビューに答える夫の言葉から、夫の本心を知ることが出来ました。
『治すことができないがんであると知った時、死ねるなら今死にたいと思いました。
スキルス胃がんに適した治療であるかもわからない。
根治は望めない。
延命を目的とした治療を、きつくても受けようと思った理由。
それは、遺された家族が悲しむ日が来るのは確実ではあるけれど、
一日でも先延ばしに出来ればという思いです』
そうだったのか…
胸が潰れそうになりました。
でも、大きな愛情も感じました。
インタビューが無かったら、きっと、夫の口から聴くことはできなかったと思います。
この言葉を聴いた時、私の中にも覚悟のようなものが生まれました。
とても大きな節目であったと思います。
【がんノートの言葉】
がんノートというものがあります。
若くしてがんに罹患した岸田徹さんが、
先輩がん経験者に
平凡なことから、ちょっと聞きづらいことまで語ってもらおう!
今、治療で頑張っている人たちに対しても
「元気を分け合えたり、見通しになってもらえれば」
という思いで始めた、がん経験者とのトークを動画配信するものです。
コツコツ始めたことが、今や多くのがん患者家族の大きな力となっています。
私たちが、がんノートに出演したのは2016年4月。夫の旅立ちが8月ですから、旅立ちの数か月前のことでした。
がんノートへの出演依頼を受けた時、夫の体調はかなり悪くなっていました。
その日に会場に行き、出演することが出来るのか。
「引き受けた以上、ちゃんと話す」
その言葉の通り、夫は、延長をしてくださった出演時間の間、笑顔でトークに参加しました。
既に呼吸苦があり、骨転移もあり、普段は横になっていることが多くなっていましたが、伝えたい想いが夫の出演を叶えたのだと思っています。
その時、最後に夫が「今、闘病中のあなたへ」というメッセージを求められて話したことが、以下の言葉でした。
『「希望」ですね、「希望」。どんな状況になっても、希望を捨てないというか、希望を持つ。そしてその希望っていうのはたとえば、「ステージ4で先がないじゃない」「もうお先真っ暗で絶望しかないじゃない」と思うかもしれないけども、覚悟を決めればその後の人生はやっぱり希望を持ちたいですよね。いつまでも後ろを向いててもしようがない。別に後ろを向いているからっていって、毎日が楽しくなるわけでもないし、病気が良くなるわけでもないんだったら、前を向いて希望を持って、そして自分らしく生きる。毎日毎日絶望の中におちいってウジウジしているのは、その人の本当の姿ならそれはそれでよいけども、よく考えてみたら健康だったときは自分はあんなこともしてた、こんなこともしてたというのであれば、とにかく希望を持って自分らしく生きること。それが残された人生、長かろうか短かろうが、やっぱり充実したものになるかどうか分かれ目だと思うので「希望」という言葉をみなさんに贈りたいと思います。』
夫が患者会を立ち上げると決め、名前を「希望の会」にすると言った時
私は彼に「そんな胡散臭い名前…。それに、こんなに厳しい状況に希望って…」と言ってしまいました。
がんノート出演で、私は彼が「希望」に託した想いを知りました。
自分らしく生きる
この言葉は、今、希望の会のフラッグにも書かれています
【夫の最期の日々を丁寧に振り返った先に】
今日、私が受けたインタビューは、夫と過ごした最後の数か月を振り返るものでした。
2人でしっかり話し合い、決めていた『最期は自宅で』にこだわるあまり、
自宅での痛み、呼吸苦のコントロールがうまくいかない中、私たちは、どんどん疲弊していきました。
夫は「今は終末期鎮静ができる状態ではない。それでも、毎日、確実に最期に向かって生きている。このカウントダウンの日々に、何の意味があるのか。
もう、目覚めたくない。自分が生きているから、あなたは24時間を自分のために緊張し続けている。僕が生きるほど、あなたを苦しめる」と言いました。
その状況を見かねて、訪問看護のナースの方に、レスパイトという仕切り直しを提案され、夫は一時、病院に行くことを決めました。
この入院で、病院で痛みや苦しみがコントロールできることを体験し、夫はもう自宅には戻らないと決めました。そして、最期の日々を、病院で家族で病院で過ごすことになりました。
その経緯は、今までも話したことがあったのですが、病院での家族の会話の内容を聴かれたことは今日が初めてでした。
ひとつひとつ記憶をたどっていきました。
そして、私は夫の死後、3年以上経って、夫が何を思っていたのかに、やっと気づいたのです。
【家族は笑顔で昔話をしていた】
医療的なことは、病院にお任せできるので、個室で過ごした最後の2週間、私と、時に子どもたちを交えて、私たちはひたすら、一緒に過ごした楽しかったことを思い出しては話して過ごしました。
なぜか、スキルス胃がんになってからの話はしませんでした。
出会い、結婚し、子育てをした日々の、いろいろな出来事を話していました。
夫婦としても、それなりにいろいろあったので、「僕の我慢によって夫婦はなりたっていた」「え~?それはこちらの台詞」などと言いながら、
あんなこともあった、こんなこともあったねと話しました。
子どもたちが来ると、息子が野球部を辞めることになった時、娘が高校を辞めると言い出した時、「親だって、必死だったんだぞ。ここで、守るのか、諭すのか…。いろいろな想いがあった。でも、子どもたちの人生は親のものではない。例え世界中を敵に回すことがあっても、親として子どもを信じようと腹をくくったんだ」と笑いながら話していました。
「お母さんのことは心配しなくていい。騒ぎはデカいかもしれないけれど、この人は潰れたりしない。それに、お母さんには友だちもたくさんいると思うから、きっと支えてくれる人はいると思うよ。
だから、お父さんがいなくなっても、あなたたちは、自分の信じた道を生きなさい。お母さんを心配することはない。
お母さんがやりたいことをさせておけばいいんだよ」とも言いました。
お見舞いのお申し出は一切断り、家族でいっぱい話した日々は、いつも笑顔に満ちていました。
「なんで、みなさん笑顔だったんでしょう」
今日、そう質問されて、初めて「ほんとうだ。もう別れの日が近いというのに、なんで笑顔だったんだろう」と思い、私も初めてそのことを考えました。
そして、気づいたのです。
夫は、きっと、私たち家族は幸せに生きてきたんだよと示したかったんじゃないかと。
それで、いっぱい笑えるように話してくれていたんじゃないか。
そして、彼は、最期に、本当にいい人生だったと思っていたのだとも思います。
いつか、我が子が親になり、親としての悩みにぶつかった時、自分はもういない。
その時に、なにかの参考になるならという思いも込めて、「親だって、あの時、めちゃくちゃ悩んでいたんだぞ」という話を、いっぱいしたのだとも思い至りました。
あの時間があったから、今、私たちは自分の毎日を生きていける。
とても、とても大切な贈り物だったと気づきました。
私が彼の立場だったら、同じことができたかなと思うと、無理だったなと思います。
彼と出会ってから過ごした34年の日々。
私は素敵な人に出会い、幸せな人生だったなと、改めて思いました。
今まで、失ったことばかりを見ていましたが、本当に豊かな日々だったと思えました。
6年前の告知の日から、この季節が嫌いでした。
でも、今は、幸せそうに寄り添う人たちを見ても、素直に
いい感じだね❢と思えています。
その気持ちは、自分のことも温かく包んでくれています。
自分の人生を豊かだと思えた。
私は長いトンネルを抜けたんだなと実感しています。
だから、きっと、ここから、私は変わっていくような予感もしています。