ゆとり21面相 #1
ただひたすらにガソリンを消費して5時間が経った頃だった。
ようやく機械的な女性の声が「目的地周辺です」とアナウンスをしてくれた。このロングドライブに付き合ってくれたこの女性の声は、心なしかいつもより疲れているように聞こえた。
お疲れ様、肩と腰にダメージを与え続けた自分に言葉をかけた。
これまで何回もその言葉を自分の口から他の誰かへと発してきたはずなのだが、初めて心を込めた「お疲れ様」を言えた気がした。
目的地に到着したは良いものの、外は暗い。
この土地は小学2年生の終わりに離れて以来、Google Earthでしか訪れたことがなかった。あの少年時代を懐かしむ気持ちとともに昔住んでいたマンションの周辺を散策しようとしたが、この暗さでは足元ばかりに注意がいってしまいそれどころではないだろう。車を走らせているときはノスタルジックに浸る気満々でいたのだが、自他ともに認める計画性の無さをここでも本領発揮してしまった。
いつものように朝食は食べず、お昼をとうに過ぎた15時頃にコンビニで買ったおにぎりを1個食べてからはずっとハンドルを握っていたので、到着した安堵感とともに空腹感が訪れた。
とりあえず大通り沿いの漫画喫茶の駐車場に車を停めることにした。そしてタブレットのGoogle Mapを開いて近くに居酒屋があることを確認し、そこで夕飯を済ませようと決めた。口コミ評価が4.3となると相当地元の人たちに評判がいいのだろう、これは期待できる。上手に注がれたビール、綺麗に盛られたカツオの刺身、ベーコンの入ったポテトサラダ。サイトに投稿されている料理の写真を見てみてもどれも美味しそうだ。もちろん加工された写真ではない、だろう。
エンジンを止め、ハンドル越しにガソリンメーターを見ると満タンにしてきたはずのガソリンは半分ほど減っていた。走行距離355km、燃費21.3km/L、インパネに映った今回の走行情報を見ると更にどっと疲れが押し寄せてきた。
車のドアを開けるとまだ寒さの残る3月の夜風が鼻を襲った。咄嗟にネックウォーマーを鼻まで上げようとしたが止めた。
私は小さい頃からその土地ならではの匂いを楽しむのが好きだ。新しい土地で深呼吸をするとその空気を自分の体内に取り込み、まるで自分がその土地と一体化したような感覚を味わえるからだ。
せっかく遠路遥々やってきたのに、ネックウォーマーに染み付いた柔軟剤の匂いを体内に充満させるのは勿体ない気がした。
ドアを片手で丁寧に閉め、その場で深呼吸した。
「ただいま」
小さな声でそっと呟き、体内に入ってくる懐かしの故郷の空気を感じた。
澄んだ冷たい夜風の匂い、漫画喫茶から流れてくる何か独特な匂い、微かに香るネックウォーマーの柔軟剤の匂い。
正直、懐かしいなんて感情はこのごちゃ混ぜの匂いからは感じることはできなかった。そもそも15年も前に住んでいた土地の匂いなど覚えているはずがなかった。
それでも勝手に「懐かしい」と脳内を錯覚させ、無理矢理この真っ暗な第二の故郷を嗅覚で懐かしんだ。おかえり、おれ。
今日はこの漫画喫茶を寝床にするのだが、まだ受付はしないことにした。今受付をしてしまうと、これから居酒屋で夕飯を食べるのにその時間分の料金までもとられてしまうと考えたからだ。少しでも節約をしなければ。
一応漫画喫茶には申し訳ないと思いつつ、店員に見つからないよう周囲を気にしながらタブレットのGoogle Mapを頼りに、次なる目的地の居酒屋へと歩みを始めた。
「いらっしゃいませー」
店のドアを開けると女性店員の良く言えば落ち着いた、悪く言えば活気のない接客挨拶が聞こえた。
歩いて5分、住宅街の中にその居酒屋は店前に腰の高さほどの小さな看板を光らせて営業していた。住宅街といってもここは田舎であるから一軒一軒離れて家が並んでいるため、深夜まで営業していても苦情はこないだろう。
「おひとり様ですか?」40代後半くらいの女性の店員が厨房から出てきてカウンター越しに尋ねてきた。
ドアを開いてすぐ目の前にカウンターが5席、左側には座敷があり4つテーブルが並んでいた。絵に描いたような個人経営の居酒屋という感じだ。
私以外に客はおらず、テレビから流れるアナウンサーがニュースの原稿を読む声がよく聞こえた。
「あ、はい、ひとりです」
「カウンターでも大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「そしたらこの席でいいかな?」
右手で指された座席に座り、左手に抱えたタブレットをテーブルに置き、店員から温かいおしぼりを受け取った。指先の失った体温を取り戻すかのように、おしぼりから温かさを吸収した。
カウンターと椅子の木製ならではの匂い、座敷の畳の匂い、カウンターの傍の厨房からは味噌の煮込みの匂いが流れてきた。どこか懐かしい家庭的な匂いに包まれ、長時間の運転の疲れは少し軽減された、気がした。
「メニューはこのメニュー表と後ろに貼ってあるものから選んで、注文が決まったら声掛けてね」
そう言うと店員はメニュー表を私に渡し、カウンターで何やら食材を切り始めた。店内にはコンコンコンと包丁とまな板が奏でる平和なハーモニー、東京で起きた悲惨な交通事故を伝える男性アナウンサーの緊張感ある声が流れていた。「この事故による死亡者は2名、重傷者は9名となっており、死亡したのは…」
一通りメニューに目を通し、注文が決まったので店員に声を掛けようとした。すると店員は何かを察したように真下に向いていた顔をこちらに向け、
「注文決まった?」と笑みを浮かべながら尋ねてきた。
「はい、注文お願いします。えーっと、生ビールともつ煮込み、刺身の盛り合わせとポテトサラダをお願いします」
「かしこまりました」やはり落ち着いた声で注文を取り、再び目線を真下に向け、食材と向かい合った。
注文を終えた私は手持ち無沙汰となり、右脚のポケットからスマホを取り出した。スマホにはいつものような温かさはなく、ひんやりとしていた。
スマホを握る私の右手は震えていた。
パスコードを入力し、冷たい液晶画面を上から下になぞった。やはり操作する左手も震えていた。
画面左上にある機内モードをオフにする。するとスマホは血液を体内の隅々までに巡らせ、心臓が脈を打つかのようにヴヴヴヴヴヴと振動し始めた。
「新着メッセージがあります」「不在着信○○件」
瞬く間にスマホの通知画面はそれらで埋め尽くされた。
何かから逃げるように急いで私は再びスマホの画面を切り、右脚のポケットにしまった。太ももの一部が一瞬ひやっとし、体が震えた。
自分の心音が早くなっていることに気付き、息が苦しかった。気持ちを落ち着かせようと目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
木製のテーブルと椅子、畳、煮込みの匂いがした。
あぁ、この懐かしい匂いはあの時のものだったか。
目を閉じながらもう一度、ゆっくりと深呼吸をした。
◇~◇~◇~◇~◇ #2へ続く ◇~◇~◇~◇~◇