春死なむ
つい先日、義母が亡くなった。
私と彼はつい最近結婚したばかりで、(結婚とは言っても事実婚で、私は私の名字を守ることにした)一向に病状が快復しない義母にせめて見せてあげなくてはと、急遽撮ったウエディングフォトのアルバムを握りしめて新幹線に乗っていた。
彼の実家は瀬戸内海の方にある。
ゆえに片道5時間もかかる。
浅い眠りを何度繰り返しても着かなくて、広島を過ぎるころにはすっかり嫌になっていた。
6年も前から付き合っていて、同棲を始めて4年も経ってしまった私たちは両家の両親とはすっかり知り合いになっていて、義両親からは野菜やらお菓子やらお酒やら、時にはお金まで貰っていた。
でも、結婚していない内はあくまでも他人であるからと思って義母の見舞いは遠慮していたのだ。自分が具合が悪い時に他人が訪ねてきたら嫌だろうとも思った。
義母の病状については普段からよく把握しているつもりだった。
私の実母と同じく癌の闘病中であること、実母より発生元の場所が悪いということ、すっかり弱気になってしまっているということ、そして、もう治療をする体力も残っていないということ。
義母の癌が見つかったのは3ヶ月前、年末のことだった。本当につい最近だったのだ。
当時まだ"彼氏"だった夫のもとに、義父がぼそぼそと電話をかけてきた。
「あー、そこにまめなりさんもいるんか。えー、あのなぁ、母さんの、膵臓に癌が見つかったんよ。」
義父は耳を澄ませないと聞こえないほど声が小さい人で、色々なことへの興味が薄い。さすがに失礼だと思うからずっと黙っていたけど、アニメ『あたしンち』のお父さんにめちゃくちゃ似てる。夫や義兄は義父のことをあまり良く評価しないけれど、私は義父のことはわりと好きだ。
言葉数が少ない分、ひと言ひと言に重みを感じる。
それから、義父の声が小さいところは夫に遺伝しているし、無口なところは義兄に遺伝している。
そんな義父が申し訳なさそうに義母の病気のことについて報告の電話をかけてきた。
後ろに義母もいるようで、
「そんなに大袈裟なことじゃないんよ!なんでそんな風に言うの!?」
と怒っていた。
義母は基本常に義父に怒っているので、私はこの時(ああ、お義母さんいつも通りだ)とほっとしたのである。
その時からたった3ヶ月。
2ヶ月前までは新幹線に乗って都内に来ていた。特殊な治療を受けるためだ。
先月までは自分で台所に立っていた。義母は料理が上手だった。
2週間前に入院したが、自分でご飯を食べていた。この頃にはすっかり弱気になってしまっていて、義父にお礼の言葉を述べはじめたと聞いたので私たちは少し焦った。
そして、今。
目の前の義母の姿に、私は声が出せなかった。
驚いた顔をしてしまっただろうか。
元々小柄な体はあまりにも小さく痩せていて、私に話しかけたくてもかすれた声しか出せないようだった。
「まめちゃん、遠かったやろう、ごめんね。」
「お母さんは元気?抗がん剤はどう?」
耳を近付けて聞いてみると、言っていることは普段の義母のままだった。
安心すると同時に、それがかえって残酷だとも思った。
「とんでもないです、ご挨拶もせずに。」
「母は元気です。仕事もしています。」
なるべく動揺を見せないようにした。
義母の表情がにわかに和らいで、口がぱくぱくと動いた。耳を近付けると、
「ぽんちゃんは元気?ぽんちゃんに、会いたい。」
ぽんは私が実家から連れてきた犬で、4年前から夫と2人で世話をしている。私たちの溺愛の甲斐あってすっかりとぼけた犬に仕上がっている。おすわりもお手もできないし呼んでも来ない。
夫がぽんの写真や動画をたくさん送るので、義母はぽんのことをよく知っていて、そして心底可愛がっていた。
昔から動物好きで、特に小さなうさぎやねずみを飼ってかわいがっていた心優しい末っ子の夫が、また小さな動物を飼って可愛がっているのも嬉しかったのだと思う。
義母にはじめて会った時、あれはもう5年も前のことだろうか。
「頼りなくて申し訳ないんだけれど、本当に優しい子なんよ、まめちゃんには苦労かけとるやろうけど、優しい子なんよ。子どもは嫌いやけどね、小さい動物なんか大好きで、死んでしまったりすると落ち込んで、泣いて泣いて手がつけられんようでね、昔うさぎを飼ってた時なんかね…」
私の手を握って、言い訳をするように話していた義母のことを思い出す。あの時も、お義母さんの手はびっくりするほど小さかったな。
何年も前から、義実家の玄関の1番目立つところにはぽんの写真が飾られている。ぽんはオスなのに、ピンクのリボンでデコレーションまでしてある。
さらに、年に一度ぽんへのおこづかいという名目で5万円が振り込まれる。私は大変恐縮してめまいがするような気持ちだった。
義母の並々ならぬぽん推しは続いた。
そんな中で迎えた昨年のゴールデンウィーク。義母が都内まで遊びに来るとのことだったので、せっかくだからとぽんを連れて行った。夢にまで見たぽんとの逢瀬が叶った義母は、うやうやしくぽんを抱き上げ、あまりの嬉しさに涙を流していた。
まさかそこまでだとは思っていなかった私はぎょっとしてしまったが、ぽんはその数倍ぎょっとしていて、その顔が面白くてみんなで笑った。
そういえば、あの時にはもう腫瘍があったのだ。
なんでもっと早く、もっとたくさん、ぽんに会わせてあげなかったんだろう。
ぽんの話を出されると、鼻の奥がつんとした。
「今度はぽんも連れてきますよ。」
と言うつもりだったのに、言ったら泣いてしまいそうだったので頷くだけになってしまった。
ウエディングフォトを見せたら微笑んでいるように見えた。いっしょに写ったぽんのおでこを小さく撫でていた。
その翌日、激しい苦しみと共に義母は息を引き取った。モルヒネはあまり効いていないようだった。
まさかこんなことになるとは予想もしていなかったので、もちろん喪服は持っていなかった。
大急ぎで諸々の準備をして、私の両親の名前で香典とお花を出した。
義父は私の生家の名前をはじめて知ったらしく、何もかもが遅すぎたことに心から後悔した。
義母は私のフルネームを知っていただろうか。
そういえば両家の顔合わせすらしていない。
ステージⅣの癌と5年間も闘病しながらたくましく働く私の母のことを、義母は尊敬すると言ってくれた。いつかお話できればいいのに、と。
もたもたとノロマな嫁で本当に申し訳ないと思った。何ひとつ叶えていなかった。
義母は真っ白くて小さい骨になってしまって、箸で掴むとからからと軽かった。
夫は一度も泣かなかったので、私も泣くわけにはいかなかった。
葬式を終えて義実家に帰ると、家の中は義母の物でいっぱいだった。
ふと義母の机に目をやると、新聞の切り抜きが置いてあった。
朝日新聞の文芸紹介の頁だ。
願はくは 花の下にて 春死なむ
そのきさらぎの 望月の頃
西行の和歌。
義母はこれを訳せたのか。
願いが叶うならば、桜の下で春に死にたい。
釈迦が入滅したという、2月の満月の頃に。
私は高校で古典の教員をしている。
釈迦の入滅は2月15日、旧暦の2月は現在で言うところの3〜4月だ。義母が亡くなったのは3月15日だった。
ぶわっと涙が込み上げてきたので、着替えをすると言って二階に引っ込んだ。
私はもっと早くあれを見つけて、義母に「そんなこと言わないでください」と言わなくてはいけなかった気がした。
帰りの新幹線もしっかり5時間かかった。浅い眠りを何度も繰り返したのに目が覚めると大阪だったので嫌になった。
東京に帰ってきてテレビをつけると、
今年の桜は開花が遅れているのだと誰かが説明していた。
願はくは 花の下にて。
今年の桜は、開花が遅れているらしい。
私はあの和歌を忘れないだろう。