肩の力を抜いて楽しく生きたい
通院では先生達と写真を撮らせてもらったり、厚かましく一言メッセージをお願いして書いてもらったり、診察の内容いかんによってはこの先1ヶ月生きるだけのじゅうぶんなモチベになる。
だから死にたがりの私が毎日生きてるのは『とりあえず頭痛外来があるから頑張って日々のタスクをこなすか』っていうだけの話。
それでも病院で長いこと待機してようやく自分の番が回ってきたかと思っても、巻きで診察が終わる事も多い。
他の患者さんの診察時間の長さと比較して自分だけ短かったりすると『私は大丈夫じゃないのに大丈夫だと思われたのかな』とか、頑張って普通の振る舞いをするほど大丈夫だと思われておざなりにされるのかなとか、
どうしてもこれまで『大丈夫じゃないのに大丈夫だと思われてきた』(過剰適応)経験から、淡白に扱われる事が辛い。
『こんなに辛いのにどうして誰も気づいてくれないんだ、どうしてもっと私の方を見てくれないんだ!」
思った事をその場でパッパっと喋れるわけじゃないし、痩せたいとか、自分の顔が醜いとか、毎回同じ事を訴えるのはどうなのかと思って特に何も言語化しないでいる事が多いけど、生きている事がもう苦行の連続なのでこういう場で思うように自分を出せないと次の診察までの1ヶ月が物凄く苦しくなる。
希死念慮も消えたわけではないし、時間を忘れるくらい楽しめるような事もなくなった。それでも集中力がない中毎日少しずつでも絵を描いてるのは、絵を描くことが楽しいわけでもSNSでバズりたいとかでもなくて、死にたい中でも頑張って何かを積み重ねてる自分の頑張りを認めてもらえたらこの先も頑張れるかもしれないから。
教養だと思って本や映画1本観るのにも何日もかけてインプットとアウトプットを繰り返したり、『頭良い』と言われたらフロイトとか買って評価に見合う自分であろうとしたり、何をするのにもどこまで行っても『こうあるべき自分』『こうありたい自分』を演じる事に終始していて、途方もなく疲れてきてしまうことがある。
ただただ自分に苦行を課しているだけで、これも何かの病気のような気がしてきた。
やりたい事をやって過ごす、というのがもう分からない。全ての事が無意味でバカバカしく感じる。頑張らなくていいなら私はもう何も頑張らず死んだように眠り続けたい。
頭痛が治まって空白になった分の時間を鬱が埋めようとしてくる。
まだ頭痛の方が良かった。