地下鉄はいつも時刻通り
月に一本、noteを書こうと思った今年。
さて、なにを書こうか。滑り込みぎりぎりにもほどがある。これはもうアウトだ。
なぜ、ぎりぎりでしか動けないのだろう。
ほぼ毎日、どこかしらで頭の中で♪ギリギリでいつも生きていたいから〜と流れている。
寝坊しているわけではない。なんなら朝は早いほうだ。6時に起きて、6時半すぎには朝ごはんを食べている。けれど、たとえば8時に家を出たいと思っていても、気がついたら時計の針は予定時刻をさしているのだ。
小学生のころは、「ちょっとそこの男子〜!ちゃんと並んで〜!」系の女子だった。典型的優等生。だから、5分前行動は当たり前だったし、5分前行動ができる自分がかっこいいと思っていた。
中学生のころは、朝の時間は1分単位で動いていた。地下鉄通学だったから、7:36の地下鉄にのるために7:09に家を出ていた。7:10ではちょっと遅いのだ。
高校生のころは、ガリ勉を極めていた。地下鉄の乗り換えでも単語アプリをやっていたし、歩きながらリスニング(たまにシャドーイング)をしていた。たぶん、このあたりから「時間をフルで使う」ことを覚えたのだと思う。
大学生になってから、「時間をフルで使う」ことを求めてバイトや予定を組み込んだ。予定が入っていないカレンダーをみると不安になる感情も経験した。レポートは〆切直前でやるほうがコスパがいいとさえおもうこともある。
とにかくめいっぱい時間を使いたい、らしい。
でも、ここでもっと小さい頃を思い出す。ひたすら泥団子を作ったり、ひたすら一輪車にのったり、ひたすら四葉のクローバーを探したりしていた、あの頃。
いまは「時間が来たからやめる」がほとんどだけど、あの頃は「疲れたからやめる」「飽きたからやめる」が基準だった。
それもいいじゃないか。人間の決めた時間というものに支配されずに、人間らしく。
そんな日を過ごしたいなあと思いながら、5月が終わる2時間前にやっと今月のnoteを書いた。
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