坂本サトルさんの被災地復興支援と、10 for 10 TOHOKU「10年後の僕ら」
2011年3月11日の東日本大震災から、11年が経ちました。
数年前に仙台を離れてしまった私は、3月11日近辺になると、
震災はどこか他人事の土地でこの日を過ごすことに、うっすらと罪悪感を感じてしまったり、何もできない自分に少し落ち込みます。
坂本サトルさんは、毎年、3月11日は気仙沼に足を運び、小泉海岸で黙とうし、献花をされているそうです。
そんなサトルさんの行動を、ラジオやSNSで見聞きすることで、震災を忘れないことや、被災地への気持ちを託しているような気がします。
サトルさんが、2022年3月9日放送『GO!GO!らじ丸』(RAB青森放送)や、3月10日放送『坂本サトルのミリオンレディオ』(FM青森)、3月14日放送『ひとりの時間』(tbc東北放送)でお話されていたことを引用して、サトルさんのいままでの被災地支援と、サトルさんが2020年にプロデュースされた、10 for 10 TOHOKU『10年後の僕ら』について、紹介します。
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坂本サトルさんが迎えた2011年3月11日
2011年当時、サトルさんは神奈川県に自宅を構え、神奈川と青森を行ったり来たりしながら、音楽活動を行っていたそうです。
震災当日の2011年3月11日、サトルさんは、自身が音楽を担当した弘前が舞台の映画『津軽百年食堂』のプレミアム試写会が、弘前市と八戸市で控えていたため、青森に滞在していました。
青森市内の神社でヒット祈願をしたり、監督や俳優の方々とプロモーション活動をしたり、、、そんな中で、東日本大震災が発生しました。
青森市内は停電等があったものの、2日ほどで復旧。青森県内の被害はそれほど大きくなかったそうです。
ところが、新幹線は被災して動かない。飛行機は1000人のキャンセル待ち。サトルさんは、なかなか自宅に帰ることが叶わず、10日間ほど青森に滞在していたとのこと。
その後、本人曰く、どうやって帰ったか覚えていないものの、なんとか3月中に神奈川県の自宅にたどり着くことができました。
そして、帰省してすぐに、友人である宮城出身の声優・山寺宏一さんに声をかけて、東京で復興支援イベントを行い、そこで集まったお金を持って、被災地に足を運んで支援活動を行おうと、決意を固めたのでした。
避難所を訪れて行った被災者支援
震災直後、被害の大きかった岩手県・宮城県・福島県には、津波で自宅を流されたり、住宅が被災して住めなくなった方々のための避難所が、1000か所以上ありました。
サトルさんにとって宮城は、大学時代を過ごし、JIGGER’S SONを結成し、ソロデビュー後も中心的に音楽活動を行っていた、大切な場所。
福島にも友人や知り合いが多く、岩手にも親戚や友人が住んでいます。
当初、サトルさんは、1000か所すべての避難所に足を運ぶ意気込みでした。
2011年4月7日、この日初めて、福島県相馬市にある震災被災者の避難所に訪れたそうです。
避難所で被災者の方々に困っていることを伺ったところ、「津波で流されて車がない」「買い物に行けなくてものが買えない」という声があったため、サトルさんは、仙台のイベンターから車を借り、買い物代行をするなどの支援を行いました。
また、2011年4月9日、宮城県東松島市の小野市民センターという当時の避難所で、はじめて復興支援としてのライブを行いました。
坂本サトルさんの代表曲の一つといえば、JIGGER’S SONでリリースした『大丈夫』。
被災者が生きるのがやっとという、あの状況の中で、歌を歌うということ。
まったく「大丈夫」じゃない方々の前で『大丈夫』を歌うということ。
「誰かのために歌うんだと覚悟を決めてステージにあがった」と話すように、相当の覚悟と強い決意をもって、避難所ライブに臨んだのでした。
サトルさんはこの日のライブについて、
「一生忘れない。僕の一生を左右したほどのライブだった。歌うということは、売れる売れないとか、自分のことを知っているとか知らないとか関係ない。歌うというのは自分の天命だと感じた」と述べています。
被災地を実際に訪れて気が付いた復興の差
そんな風に、サトルさんは足しげく各地の避難所を訪れて、支援活動を続けていきました。
実際に避難所に足を運び続けていくうちに、わかったことがありました。
それは、町単位どころか、避難所1か所ごとに、求められる支援が異なるということ。
例えば、とある避難所で「柔軟剤がないから買ってきてほしい」と言われ、買い物代行をおこなうため20分ほど車を走らせていたところ、通りかかった別の避難所では、「今日初めてご飯が届いた」という有様でした。
このほかにも、橋が壊れて陸の孤島と化している避難所や、いまだ電気が復旧しない避難所がありました。
たった20分車を走らせただけで、これほど被害や復興の差があることに驚き、避難所ごとに求められている支援がまったく異なる状況の中で、1000か所の避難所に1回ずつ足を運ぶことが、果たして被災者に寄り添った支援となるのか、迷いが生じてきたそうです。
気仙沼の避難所に通い続けることに決める
そんなとき、気仙沼の避難所にいる知り合いから、サトルさんに連絡がありました。
「気仙沼には、芸能人がいっぱいきてテレビでも放送されるような、いわゆる‘’有名な避難所”もある。だけど、そうじゃないところは、全然だれも応援にきてくれないし、どこからも取り上げてもらえない。ひっそりして、空気もよどんでいる。そういうところに顔を出してほしい」
そう声をかけられました。
5月に初めて気仙沼に入ったサトルさん。
そこで1日に4か所くらい、いままで支援が届いていなかった避難所を中心に回って、ライブを行ったそうです。
そこで被災者の方にかけられた「また来てね」という、本当にうれしそうな声。
また、隣の地域の避難所から見に来てくれた方が、「ここの隣の避難所にいるんだけど、今度はうちにもきてよ」と言ってくれたこと。
そういった経験から、サトルさんは、「1000か所に1回ずつ訪れるより、極端にいえば、1か所に1000回訪れる方が、被災者に寄り添える、意味のある支援になるんじゃないか」と思えたそうです。
それから、サトルさんは、気仙沼にほぼ毎週足を運びました。
とにかく毎週続けて通うことで、復興の進みや問題点も見えてきて、より被災者に寄り添った支援をできると、気持ちが定まったのでした。
毎週、被災地に訪れること。
それは、身体的にも精神的にもタフでなければ実現できなかったことは、想像に難くありません。
サトルさんが、当時のことを振り返った印象的なお話があります。
「改めてあのときの自分を思い浮かべると、毎週末は気仙沼を中心とした被災地にいって、足りない物資を買ったり、ライブをやったりしていたけど、本当に不思議な感覚になったんだよね。
6月くらいから、東京や関東近辺はまったく普通の生活に戻っていた。
9月くらいだったかな。銀座でタクシーに乗って、車窓から流れる景色をぼーっと見ていた。
毎週、被災地にいくと、まだまだ信じられない光景が目の前に広がっていて、生きるのがやっと。みんながなんとかして励ましあいながら、がれきの中で支えあっている。
そこから数時間かけて移動すると、きれいなネオンの銀座の街並みが目の前にあった。
どっちが夢なんだろうと思った。繰り返すうちに自分でもよくわからなくなっていった。」
11年経ったいまなお 3.11に気仙沼に足を運ぶ意味
毎週気仙沼を訪れていたサトルさんですが、時の経過とともに復興が進み、避難所がなくなり、昨年ついに仮設住宅もなくなりました。
しかしサトルさんは、2012年から毎年かかさず、3月11日には気仙沼に訪れ、震災の発生した午後2時46分に小泉海岸で黙とうをささげ、献花を行うことを続けています。
小泉海岸は、震災時21メートルの高さの津波が襲った海岸だそうです。
サトルさんは、
「自己満足かもしれない。だけど、毎年被災地に通うことが、復興支援に片足をつっこんだ者の宿命だと思っている。
震災支援に関わってしまった人は、3.11はあそこに行かなければいけないんじゃないか。そうでなければ、あの時やった意味があやふやになってしまうんじゃないかと、気持ちが揺らいでしまう。
あの時おこなったことが、ずっと繋がって今がある。そう自分に刻むために行っているのかもしれない」とお話されています。
サトルさんが気仙沼に訪れる際は、必ず、気仙沼の友人・佐々木さんのおうちに泊まるそうです。
佐々木さんのお宅で、ご家族や友人のお話を聞く。または、その時に知り合った地元の方々にお話を聞く。すると、とても小さな、だけど、とても悲しい話がたくさんあるそうです。
普通の人に起きたらショックで耐えられないこと。そんなことが多すぎて、テレビやマスコミで取り上げられることのない小さな出来事にされている。
自分自身で、現地に行って、そういった方々のお話に耳を傾け、被災地の今を確認しているのです。
「3.11は、自分の誕生日のように、1年に1回必ずやってくるもの。気仙沼への来訪は、ライフワークとして、ずっとやり続けていく」と、サトルさんは述べています。
10 for 10 TOHOKU『10年後の僕ら』のこと
東日本大震災から10年目を迎えた昨年、様々なイベントが立ち上がりました。
その中のひとつ、宮城のテレビ・ラジオ局のtbc東北放送が企画したプロジェクトとして、
震災を「忘れない」「風化させない」という強い想い、そして「大切な人への想い」「未来への希望」を込めて、坂本サトルさんプロデュースのもと、tbc復興応援ソングが作られました。
参加したアーティストは以下の10組。
坂本サトル/山寺宏一/竹森マサユキ/熊谷育美/伊東洋平/浅野祥/kolme/髙橋麻里/幹miki/八神純子
震災10年目に集まった10組のアーティストということで、10 for 10 TOHOKUと名付けられました。
東日本大震災から10年|復興応援企画「応援ソングプロジェクト」 (tbc-sendai.co.jp)
サトルさんが、復興支援をおこなうために訪れた避難所では、大人たちはつらい状況に打ちひしがれ、落ち込んで、どんよりした空気が漂っていました。
しかし、どこの避難所でも、子供たちが無邪気に走り回っていました。それが、どれほど周囲の大人たちの心の支えになったことか。
本人(子供)たちはわかっていないけれど、周りの大人たちは、走り回っていた子供たちに本当に救われていたと、感じたそうです。
「小さな希望の光」とは、あのときの避難所の子供たちのこと。
サトルさんは、震災復興ソングを手掛けるにあたり、当時の子供たちと話しをしたそうです。
震災から10年たったあの時の子供たちは、すっかり成長し、就職する年齢になっていました。
震災当時の経験をかてに、これから地域や人々の役に立ちたいと話していたそうです。
10年前の小さな光が、10年を経てとても大きな光になって、みんなを照らそうとしている。
そのことに感激して、サトルさんは『10年後の僕ら』の歌詞を書き上げたそうです。
歌詞の最後の3行のラインが、一番伝えたいメッセージであるともお話されています。
「震災前の姿や街並みに戻りたい。その気持ちは十分わかる。でも戻らない。あたらしい環境で精一杯生きていくしかない。
被災地で育っていく子供たちは、新しい街並みのなかで思い出をつくりながら、生きていく。
これから街をつくっていくのは子供たち。いつまでも昔が良かったっていうと、じゃぁ今のここはどうなの?と思ってしまう子もいるかもしれない。
生意気かもしれないけど、こんな風に思えたらいいよねっていう、僕からのメッセージを込めました」
「10年後の僕ら」 - YouTube
◎10年後の僕らリリックビデオバージョン
https://youtu.be/Gu8UkBdHad0
◎『10年後の僕ら』は、各音楽配信サイトで配信されており、売上げの一部は東日本大震災義援金として被災された方々に送られるそうです。
10年後の僕ら by 10 for 10 TOHOKU, 坂本 サトル, 山寺 宏一, 竹森 マサユキ, 熊谷 育美, 伊東 洋平, 浅野 祥, kolme, 髙橋 麻里, 幹miki & 八神 純子 - TuneCore Japan (linkco.re)
◎サトルさんのライブアルバム『4月3日に生まれて』には、バンド演奏でサトルさんとモモさんが歌う『10年後の僕ら』が収録されています。
■坂本サトル / ライブアルバム「4月3日に生まれて」 - 坂本商店 web Market (shop-pro.jp)
[つながり通信] 故郷・東北への熱い思い 坂本サトルさん - YouTube
※上記内容は、サトルさんが各ラジオの放送でお話しされた内容をまとめたものです。
時系列や出来事に、誤りがあるかもしれませんので、ご了承ください。