エルトゥールル号遭難事件
おはようございます(^O^)/。
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今日は、2月1日!
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今日も、絶好調で楽しそうに笑顔で過ごしましょう。
今日はいい日だ( ^^)Y☆Y(^^ )。
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エルトゥールル号遭難事件ー親日国トルコと日本をつなぐ友情の架け橋
2020年の東京オリンピック。
招致が決まったのはかなり前のことになりますが、そのときライバルだったのがトルコのイスタンブールでした。
もしもトルコに決まっていれば初の快挙でした。
普通なら大いに悔しがるところでしょう。
しかし同国では、東京開催を祝福ムード。
他ならぬ首相のエルドアン氏が安倍首相にハグして祝福したというニュースもありました。
すでに皆さんご存知でしょうかね。
トルコは遠く離れた親日国です。
元を辿れば明治時代にキッカケとなる事件がありました。
明治二十三年(1890年)9月16日、トルコ(当時はオスマン帝国)の軍船が現在の和歌山県串本町沖で遭難しました。
最近はテレビで取り上げられたり、教科書にも載っていることがあるので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
エルトゥールル号遭難事件です。
カネがないから早く帰ってこい!
当時、日本とオスマン帝国は国交がありませんでした。
エルトゥールル号は、日本の皇族(小松宮彰仁親王・同妃)のイスタンブール訪問に対する返礼と海軍の訓練を兼ねて日本へやってきたのです。
イスタンブールを出たのが前年1889年7月14日。
スエズ運河を通ってイスラム諸国やインド・香港などに立ち寄り、約11ヶ月で横浜へ到着しました。
無事に明治天皇へ皇帝の親書を渡したのですが、問題は帰り道でした。
まず、多くの船員がコレラにかかってしまっていました。
同時期に日本でコレラが大流行していたため、長旅で疲れていた船員達にもあっという間に感染者が続出してしまったのです。
その回復を待ち、司令官オスマン・パシャは9月15日に出航を決定。
彼らが滞在したのは約40日間で、予定より長くなっておりました。
ご存知のとおり、この時期はまさに台風シーズンど真ん中であり、昔から船旅には危険な季節です。
日本側も当然のように忠告しました。
「船も損耗しているようだし、その状態で嵐に遭ったらひとたまりもないですよ。
台風の時期は避けたほうがいい」
「いやいや、大丈夫です( ー`дー´)キリッ」
資金や船を動かすための石炭も乏しくなってきたオスマン帝国一行は聞き入れず。
というかこの申し出を断るしかなかったのです。
本国から「一度は追加費用出すけど、二回目は無理だから早く帰って来い!!」と厳命されていたのでした。
実はこの頃、オスマン帝国には少しずつ翳りが見え始めていました。
遡ること十数年前の1878年。
露土戦争(ろとせんそう・ロシアとトルコは不仲で、過去に10度以上も戦争をしている)が起き、イスタンブール近郊まで攻め込まれて敗北しており、近代化を急いだ反動で多額の借金があったのです。
そんな状況だったので、かつては地中海を制したほどのオスマン帝国海軍が、
「嵐を恐れて出航できない!」
なんて苦境を世界に知られるわけにはいきませんでした。
こうして無理に横浜を出航したエルトゥールル号。
不幸にも、その2日後、台風による高波で難破&沈没してしまいました。
惨事が発覚したのは船員達のうち数名が、近くの灯台下の崖に流れ着いたからです。
彼らは疲れた体に鞭打って崖を這い登り、灯台守と付近の漁村に助けを求めました。
台風で漁ができず、食料もわずかしか残っていた村人たちは、非常食や衣類を惜しみなく分け与えました。
結果、69名の命は救うことができましたが、600人以上いた乗員のうち、582名が溺死となる大惨事となってしまいました。
被害者の中には、司令官オスマン・パシャも含まれています。
助かった船員達は一度神戸の病院に送られ、10月5日に改めて日本海軍の船でイスタンブールに向けて出発し、無事に本国へ帰ることができました。
このとき奇遇にも、後に日露戦争で活躍することになる秋山真之らが同行していたそうです。
事件は明治天皇の耳に入り、できるだけの援助を行うようにという指示を出されました。
各新聞にも大きく取り上げられ、官民での支援が行われます。
中には義捐金を持ってイスタンブールまで行き、現地で店を開きながら日本語や日本について教えた山田寅次郎という人もいました。
船員救出に加え、こうした事後の支援に対してオスマン帝国は親日感情を抱いたといいます。
交渉が難航したため、両国が正式に国交を結んだのは1925年の話ですが、その間もエルトゥールル号の件は語り継がれていきます。
そして再び脚光を浴びたのが1985年イラン・イラク戦争のときでした。
3月17日に突然フセイン大統領(当時)が「今から48時間経ったら、イラン上空の飛行機は全て攻撃対象とする」と宣言したのです。
「全て」ですから、戦闘機だけでなく民間機も含まれます。
これを聞いた各国は大慌て。
イランから自国民を救い出すために、官民の飛行機が飛び交います。
当時、イラン国内には日本人が200名以上おりました。
救い出すためにはやはり飛行機を飛ばさなくてはいけませんが、自衛隊は海外派遣が禁じられているため動けず。
JALに依頼するも「いやいやいやいや危なすぎるでしょ!死んだらどうすんの!」という労組の反対によって飛行機を出すことができません。
その間にも時間はどんどん過ぎていき、ついに日本からの飛行機が間に合わない時刻になってしまいました……。
万事休す!
と思われたその時、イランの空港で救助を待ちわびていた日本人達の前に、見慣れぬ飛行機が降り立ちます。
機体に書かれたキャリア名は「Turkish Airlines」。
トルコの国営航空会社でした。
実は、当時の在イラン日本大使が個人的に在イラントルコ大使と親しく、そのツテでトルコ本国に救援を依頼することができたのです。
このときトルコ大使・ビルレル氏は
「エルトゥールル号のお礼です」
と言っていたとか。
なんだか泣きそうになりますよね。
事件から既に90年以上の時が流れており、当事者達は全て世を去っていたにも関わらず「国同士の恩」として救助を引き受けてくれたのです。
もちろん、自国民の救助も忘れていません。
トルコ人用には陸路と自動車を確保し、約500名が脱出したそうです。
その後はエルトゥールル号の件とあわせて、この件も日本・トルコ間の友好を示すものとして語り継がれています。
実は明治時代の日本では、エルトゥールル号を含めて外国船の海難事故が大きなものだけでも三件起きています。
1877年11月19日のロシア軍艦アレウト
1886年10月24日のイギリス商船・ノルマントン号事件
アレウトは北海道沖で座礁し、ノルマントン号はエルトゥールル号と同じく和歌山県沖での沈没でした。
どちらも直接的な原因は暴風雨によるもの。
トルコもイギリスもロシアも、日本や東南アジアのように台風や暴風雨に慣れていなかったでしょうから、こうした事故が起きてしまったのでしょうね……。
事件事故は痛ましいものですが、結果、国の架け橋になったりする。
世界中がそうして繋がっていけば、人や国同士の争いも多少は軟化するでしょうか。
そうした心持ちだけは忘れないでいたいと強く感じています。
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それでは、今日の言葉です。
なかなか着かない目的地ほど、着いた時には感動する
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