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「幕間」黒い鼠は鷲の爪をも逃れる~森ノ黒百舌鳥怪奇収集録~
この国はもう駄目かもしれない……。
最初にそれを確信したのは何時だったか。十年程前に突如発生した大火の日だったか、或いはその翌年の軍部の反皇帝勢力による内乱とその鎮圧による大量粛清だったか、もしくは雨季の大雨によって引き起こされた堰の決壊と大洪水が起きた日だったか、反体制指導者の毒殺、国境線に仕掛けられた地雷による隣国軍隊への攻撃、貴族街で急速に拡大した梅毒症、周辺馬賊の郎党による帝都への商隊を尽く襲撃した籠城戦。
現帝で三代続くこの国は、その成り立ちからして遊牧民族の新興国による周辺国家の制圧と急速な拡大、徹底した弾圧と殺戮という、犠牲者と等数の怨嗟を巻き起こし続けた因果を背負い、さらに内側でも後継者同士の苛烈な争いの果てに玉座を奪い合った不安定さを抱えていたため、最早何処の誰が皇帝の首や帝国の滅びを望んでも不思議ではない状況にある。
私は家系は帝国の二等市民で、祖父の代から帝国の文官として仕え続けているが、日々延々と書面に向かい合っているからこそ、この国はもう駄目だと否が応でも確信してしまう。そもそも体制からして無理があるのだ。武勇と恐怖を以って大陸の大部分まで勢力を拡大した初代皇帝が恐れたのは、いうまでもなく吸収した敵国市民や諸部族の反乱であった。五十年ほどの在位を終えて病に伏し、その後釜に就いたのは初代皇帝の孫のひとりで当時三十に満たない若き天才軍師だった。その若き天才はある意味で祖父よりも残虐で嗜虐的な男で、敵を謀り貶めることに掛けては正に天才であったが、味方を潤し喜ばせることに関しては無才、贔屓目に見ても凡才でしか無かった。先帝はまず初めに帝国市民を出自と血筋で上下真っ二つに分け、さらに各層を貢献度や生業の類で三等分して、一等から三等の上等市民、四等から六等の下等市民、下等市民たちの捌け口として流民や黒子を七等市民に置く身分制度を作った。居住や税制、職業で明確な上下を作り、婚姻や移住等の自由を縛り、さらに等級の低い市民に対しては何をしても許される常に誰かが誰かを弾圧し続ける風習を生み出した。この横柄極まりない身分制度は等級を超えた市民の結託を妨げることに成功したが、大幅な腐敗と治安の悪化を当然の如く招いてしまった。
独裁者らしく四十年ほど玉座を尻で磨き続けた先帝を暗殺し、さらに自らより継承権の高い兄姉や縁者を処刑して玉座を掠め取った現帝は、一族の中でも若く有望で、先見性のある男だったが、権力が人を腐らせるのか、地位が人を悪に染めるのか、玉座に座った途端に特殊戒厳令を発令し、四等以下の市民を手当たり次第に逮捕し、千を超える思想犯や不穏分子が裁判も無しに処刑され、万に近い容疑者を投獄し、その数倍の下等市民が兵たちの憂さ晴らしに殺された。私の友人で同じく二等市民の出の若い下位武官なんかは、いよいよ国に嫌気が差して脱走し、同僚や部下を何人も射殺して姿を消した。彼がその後どうなったのかは知らない。生きているとも死んだとも聞かないが、おそらく死んだのだろう。怪物の類でもあるまいし、この国でそんなことをして生き延びれるはずもない。地味で無口でいつまでも顔を覚えられないような目立たない男ではあったが、他の上等市民と違ってそんなに悪い奴では無かったので、少々残念に思わずにはいられない。
そんなことを考えながら、いよいよ市民への補償の術の尽きた国庫の帳簿を眺めていると、また頭を悩ませる不幸が帝都に舞い込んできたのだ。
「黒い死が溢れている」
半月ほど前に報告を聞いた時は我が耳を疑った。これまでに記録のない疫病が下等市民の居住地域を中心に流行しているらしく、症状としては体に林檎ほどの置きさの腫瘍が現れ、全身に黒い斑点や痣が広がり、急激な発熱や吐血を伴い、四肢の末端が壊疽で黒く染まるというものだ。もしかしたら帝国がかつて焼き払った諸部族の文献の中に記述があったのかもしれないが、支配の為に風俗も慣習も、文字さえも奪ってしまった帝国には成す術もなく、原始的な対処として死体を焼き払う他ない。
急ぎ発症者の死体や家屋を片っ端から焼き払い、下等市民が貴族街に踏み込まないように橋や道を全て封鎖させたが、完全に封じることなど出来るはずもない。なにせ食糧庫たる穀倉地帯の主な働き手は四等以下の下等市民たちなのだ。国を強引に支える為に作った身分制度が完全に仇となり、これまで鍬も鎌も握ったことのないような上等市民は、奇病の蔓延る下街から食べ物を運ばせるしか出来ず、瞬く間に貴族街にも黒い死が蔓延り始めた。
「貴族街にも火を放つしかない」
「発病した者は一等市民であっても見捨てるしかない」
「こうなったら帝都を放棄するのも止むを得ないのでは」
議場は日々、興奮気味に荒れ続けて自暴自棄な結論に向かうしかなかったが、疫病よりも恐るべき皇帝に真実を告げる勇気のある者など居ようはずもない。
『疫病は貧民街だけで起こっていることで、完璧に制御下にあり、上等市民の中に発病者は確認されていない』
そう嘘の報告を上げ続けている内に、とうとう宮廷内にも黒い死に侵された者が現われ、皇帝の統治に責任を問う声が興り出したのだ。その中心には皇帝の弟である、次期皇帝の最有力候補も含まれ、病に襲われた帝都は瞬く間に醜い権力闘争の舞台となってしまった。
皇弟の支持者は多く、しかも大部分が上等市民であるため、この国の支配体制を維持するためにも易々と首を刎ねるわけにもいかない。もちろん数でいえば圧倒的に現帝の支持者の方が多いが、それも相対的に見た話でのことで、帝都全体で見ればどちらもほんの一握りの天上の世界での話なのだ。現実には顔に吹出物や雀斑があるだけで下等市民が虐殺され、その反抗として三等市民の居住区では襲撃と略奪が繰り返され、鎮圧のために兵隊が駆り出されて更に不満と腐敗が募っていく。仮にこの国が黒い死を乗り越えたとしても、その頃には国としての形を成す力は残されていないだろう。
窮鼠猫を嚙むとはよく言ったものだ。飢えと死の恐怖に直面した貧民たちは、どうせ死ぬならと牙を剥く覚悟を決めて、一体何処で調達したのか、それとも予めこんな混乱も予想されて横流されていたのか、所持を禁止されているはずの銃を次々と手に噛みつき始めたのだ。
「私たちも逃げるぞ! ありったけの金と宝石を集めて、すぐに帝都の外へ……!」
暴動の火が迫る中、妻子たちを怒鳴りつけながら急かし、半ば着の身着のままで馬車を走らせて郊外へと逃げ出し、そこで帝都から追い出されて山賊化した流民の一団に襲われてしまうのだが、それもまた必然というか仕方のない流れなのだ。
【黒死鼠】
黒い死を運ぶ鼠。
元々は乾燥地帯に生息する蚤が病原とされ、蚤から鼠へ、鼠から他の鼠へと拡がり、家畜や貧民を介して都市部へ、さらに人から人へと伝染して瞬く間に世界が黒い死で満ちる。この病はかつて大陸の一端で猛威を振るい、都市によっては七割以上の人民の命を奪い、人間にとっては文字通り国を亡ぼす程の脅威となった。
その記録は亡国の子孫であった少数部族が遺していたが、帝国の侵略の際に言葉も文字も詩も焼き払われ、今となっては古今東西のあらゆる殺し方を研究する老舗の暗殺組織くらいしか知らない事実は、またひとつの窮鼠猫を嚙むともいえる。
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