苦界の聖女と馬鹿な忠犬~森ノ黒百舌鳥怪奇収集録~
「あいつら……絶対に殺してやる……!」
怨念の言葉を吐き出すのは、かつてこの世で最も美しいと噂された女だ。今でこそ荷車の上に雑に寝かされて、荷物と一緒に転がされているが、女は歓楽街の若き女王だった。茶を飲むだけでも銀が雪のように溶け、夜の伽をお願いしようものなら金が塩のように消えてしまう彼女の客は、専ら帝都から派遣された地位の高い武官や文官、あとは宝石商や美術商、それから阿片窟の元締めなど、要するに金持ちばかり。女王に入れ込み過ぎて港湾局の檜物の倉庫が空になった、なんて噂が聞こえてきた時もあった。そんな売れっ子でありながら決して威張ることなく、見習いの童女や俺みたいな雑用にまで分け隔てなく微笑むような性分は誰からも好かれ、他人から恨みを買うような女には見えなかった。
妓女たちによると女王は元々孤児で、不幸な星の下に生まれながらも、血の滲むような努力で身に着けた芸と磨き上げた妖艶な魅力で娼館の中でも大輪の華となり、同じ苦界に身を置く女たちを励ます光となって多くの孤児を養っていた。まさに泥中の蓮というべき女だ。さっき呪詛を吐いてただろって? 誰だって酒を飲み過ぎれば吐瀉撒き散らし、腹を壊せば下痢便垂れ流し、痔にでもなれば大の男でも尻押さえて喚くのと同じで、妙な病気を移されたら聖女だって毒くらい吐くもんだ。童貞拗らせた夢見がちな坊主じゃないんだ、呪詛のひとつやふたつ黙って聞き逃すのが男の甲斐性ってもんだ。
話を戻して聖女とも称される女王が、二月ほど前から奇妙な病を患った。些細な風邪ならばともかく、性病持ちや疫病持ちを客前に出すわけにはいかず、客前に出せない哀れな妓女が落ちるのはあっという間だ。金が無くなれば身形も貧しくなり、金に成らない妓女を置き続ける度量の持ち主はあまりいない。白鳥でも病が治らなければ容易く捨てられ、末路は道端で客を取る夜鷹が関の山。
客が取れればまだ良くて、客すら取れない病に罹ったらもう終わりだ。
高級妓女の銀鈴を襲ったのは実に奇妙な、医者すらも匙を投げだす、それこそ匙を掴んで窓を開けて路地の端まで投げつけるような、手の施しようのない病だ。二月ほど前のある日、彼女の胸に奇妙な痣が現れた。当初は化粧で隠していたものの、痣は段々と拡がり、でこぼこと硬い傷のように盛り上がり、半月もする頃には人間の顔のようなものへと形を変えた。奇妙な病人となった妓女は医者の間でたらい回しにされた後、治療不可能と店に突っ返され、散々金銀を搾り上げた非道な飼い主から、何処ぞにでも捨ててこいと見限られた。
しかし捨ててしまうののは忍びない。胸に顔が出来たとはいえ、彼女はかつての歓楽街の女王だ。容姿の美しさも体の豊かさも、遺棄されてから試した穴の具合も、奇妙を患ってもなお香る色気も、どれもが今でもなお右に出る者がいない程だ。つまり店で抱こうと思ったら、内臓全部売っても足りないくらいの上物というわけだ。そんな上物を看病している間は毎晩挿し放題、しかも治してさえしまえば俺みたいなのが一生働いても手の届かない極上の妓女。治れば金に困ることのない生活、博打みたいだが夢のある話じゃないか。
俺は必死に闇医者や祈祷師なんかを手当たり次第に訪ね、最後に辿り着いたのが森ノ黒百舌鳥とかいう奇妙な店だった。
見た目は薄汚くてしょぼくれた小さい骨董屋だが、どんなものでも扱うって噂の店だ。その中には病魔に侵された患者の肉片や臓腑、さらに人智の埒外にある怪奇もあるという。匙を投げた連中が口を揃えるように、もし希望があるとすれば……と名前を挙げたのが森ノ黒百舌鳥だ。
年季の入った木造の吹けば飛びそうな建物を埋め尽くすように、そこかしこに壺だの硝子球だの武器だの瓶詰の人体だのが雑多に置かれ、異国の言語で書かれた書物が天井を突き破る勢いで積み上げられ、一見すると塵芥搔き集めたようにしか見えない。しかし考えようによっては、こんなに妙なものが並んでいるのだから、きっと銀鈴の病気だって治る方法が見つかるに違いない。
「見ろよ、銀鈴。ここが噂の骨董屋だぜ、中々雰囲気があって良い店じゃねえか」
「……私もいよいよだね……こんなところに運ばれるなんて」
「何言ってんだ、これからに決まってんだろ。絶対に治してやるからな」
なんて調子だけは良いことを言ってると、店の中のがらくたの山の向こうから、せいぜい十代後半かそこらの胸も碌に膨らんでないような小娘がひょっこりと顔を出した。娼館にやってくる変態の中には扁平な体型の小娘じゃないと勃たないって野郎もいるが、俺はそういう趣味は無い。乳は豊かであるに越したことはなく、腰は括れて尻は大きい方が良い。年は二十半ばから、出来れば酸いも甘いも知ってる三十でこぼこ、そういう女こそが磨かれた名器って物なのだ。
「おい、君たち。冷やかしならお断りだぞ」
ところが見るからに残念な体型の小娘は、どうせ親の留守番か手伝いの癖に口の利き方も知らないのか、生意気にも客を選ぶような物言いをしてきた。俺は大人の男だからそんな程度で怒ることはしないが、世間には怖い大人が沢山いるのだ。運が良かったな、小娘。娼館の同僚たちだったら、その場で攫って念仏講を始めてるところだ。
「おい、お嬢ちゃん、店主はどこだ?」
「君の目の前にいるが?」
小娘の返答を聞いて、目の前の雑多に積み重ねられた商品を凝視する。しかし店の中には留守番の小娘以外は誰も何処にも居ないのだ。
「いないじゃねえか。お嬢ちゃん、大人を揶揄うもんじゃないぜ」
「だから店主はボクだと言っているんだが? ついでに言うと、ボクはお前よりは多分年上だ」
「冗談か?」
そう返答したところで意識は途切れた。最後に微かに視界の端に捉えたのは、藪から飛び出す蛇のように跳ね上がってきた爪先だった。
「馬傑、歓楽街の娼館【桃簾楼】で働く雑用係、20歳。家族構成は父、母、兄に姉、全員廃界の外に住んでいて、現在独り暮らし。家柄はごくごく普通で平穏、16歳まで比較的高度な教育を受けていたが挫折、暴力行為で放逐。前科あり、窃盗に傷害に違法薬物所持。全身に刺青、背中に太古の槍を構えた英傑が彫られていて、それが特徴らしい特徴。小心者で些細な変化や物音にも敏感、眠りはいつも浅めでよく欠伸をしている。好きな食べ物は拉麺と餃子、馴染みの店は遊楽通り沿いの黒豚飯店。わかるわかる、あの店の豚骨拉麺は値段に反して絶品だからな」
頭上で淡々と俺の個人的な情報が読み上げられている。気を失っているわずかな時間の間に調べ上げたのか、それとも俺は自分で思っているより有名人なのか。そんなわけはないので、おそらく調べ上げたのだ、廃界黒社会の異常に耳の良い情報屋を使って。
問い詰めようにも体に力が入らない。頭も重い、思考も鈍い。それ以上に顎が虫歯を患った時のように、疼くように痛む。おそらく蹴られた衝撃で骨を痛めたらしい。ということは俺は蹴られたのか。
「目が覚めたか? 先に言っておくがボクは無礼者は嫌いだ、なめた口を利くと刻んで豚の餌にするぞ」
先程の小娘が椅子に腰かけたまま見下す姿勢で忠告してくる。出来れば顎を蹴る前に言って欲しかったが、どうやらこの自称店主の小娘は基本的に短気で粗暴なようだ。それと何らかの武術を習得していて、自分より大きい相手の顎を蹴り抜ける程には足が上がり、しかも一撃が槍のように鋭く強い。
「ボクは朱雀、この店の店主だ。ちなみに君より五つほど年上だから敬語を使え」
せいぜい十代後半にしか見えないが、年齢は二十五歳ほどらしい。冗談にしか聞こえないが冗談ではなく、疑いの目を向けた途端に瞼の上から潰そうとしてきたので本当のようだ。
「すいませんすいません! 二十五歳二十五歳! 信じますから!」
「よろしい。さて、君の運んできた女だが……なかなか厄介な物に憑りつかれてるな」
朱雀が目線で促した方向から聞こえるジャラジャラと鎖の擦れる音、女の呻き声、それを隠すような獣じみた咆哮。先程までの店とは異なる殺風景な壁も床も石造りの部屋の中で、両手足を鎖と枷で固定された銀鈴が胸元の人間の顔を大きく張り出して、まるでその顔が体を操っているかのように両手足を強引に動かそうと藻掻いている。
「おい、不用意に近づくな。頭から噛み砕いてくる猛獣だと思え」
銀鈴に手を伸ばそうとすると、肩の関節が外れるのではないかと思わせる勢いで胸元の顔が口を大きく開けて、指先に噛みつこうとする獣のように近寄ろうとする。ちなみに食べようとするのは生き物としての本能がそうさせ、試しに朱雀が開いた口に向けて林檎を放ると、口の中の歯のように硬質化したものを使って噛み砕き、そのまま果汁を垂れ流しながら有るはずの無い喉へと飲み込もうとする。しかし無い場所へは届けようがない。砕けた林檎は丹念に磨り潰された後に床へと落ちて、朱雀が溜息を吐きながら雑巾を足で踏みつけて、そのまま横着な方法で拭きとっていく。
「なんだよ、これ……?」
「人面瘡だな」
【人面瘡】
人面疽とも呼ぶ。
体の表面につけられた痣が成長し、人の顔面のような形へと変化する呪い。人間の生首と対象の血液を用いて術を行使し、怨念を切らさず幾度も呪い続けることで定着する。
成長すれば物を噛み、声を発し、その段階になると体内に木の根のように神経を張り巡らせてしまうため、取り除くことが急激に難しくなる。やがて肉体の主導権を奪い、宿主を消耗させて死に至らしめるため、初期段階で対処できなかった場合は不治の病と同意。
対処方法は切除や切断しかなく、憑りついた場所によっては最初からお手上げの場合もある。
「位置もよくないな。胸に出来たってことは根が心臓に達している可能性が高い」
「ってことは……」
「処分するしか無いだろ? 仮に表面だけ削いだとしても、抉った傷口が人面瘡に変わるだけだ。焼き潰しても凍らせて壊死させても駄目、根が残らないように切り取るしかない。もちろん心臓まで達した根を切ると人間は死ぬ、当たり前の話だ」
「なにか他に方法はないのかよ! 例えば人面瘡を小さく……ぐあっ!」
朱雀に問い掛けた途端に再び爪先が跳ね上がって顎を蹴り抜き、さらに爪先が斜め上から眉間を打ち抜いた。
「敬語使えって言ったぞ」
痛みで靄が掛かったように歪む視界の中で、憔悴しきった銀鈴の顔に焦点が定まる。何か方法が無いのか、この死に瀕した女を助ける方法が。
「ボクが妓女や遊女が好きじゃないのを差し引いても、ここまで育った人面瘡から助ける方法は無いぞ。運が悪かったとでも諦めるんだな……人の恨みや怒りを運で片付けるならばの話だが」
「恨み? 銀鈴は他人に恨まれるような……」
「銀鈴、28歳。通称、薄幸の銀の令嬢。俗称、人売りの鈴」
朱雀が袖の中から便箋を取り出し、おそらく俺の素性と共に聞き出した薄幸の女王の秘密を読み上げる。
「両親は廃界から馬で五日程の小さな町の平凡な小役人。十七歳の頃、平凡な暮らしに嫌気がさして、刺激を求めて廃界へと家出、そのまま現在の娼館の支配人に雇われる。元々品の良い家柄に産まれた女には、他の者が持たない礼節と振る舞いが身についていたから幾つかの芸を仕込ませて、令嬢のような遊女を作り上げた。孤児という設定はその頃に偽った値を吊り上げる為の札だな。数年後、美貌と嘘を存分に発揮して中級遊女になった女は、自分の価値を更に高める手段を思いついた。孤児を引き取って遊女としての手技や伽の作法を仕込み、娼館の華として育てる。酷使して使い物にならなくなる手前で、里親が見つかったと偽って質の悪い娼館へと売り飛ばす。勘づいた遊女は港から外の町へ、その時は上下の口だけで稼ぐ達磨にする徹底ぶりだ。売った孤児は両手足の指では数え切れず、それだけ非道を尽くせば恨みの十や二十は当然買うだろう」
苦界の聖女とはよく言ったものだ、朱雀の集めた情報によると苦界を作る疫病そのもののような存在だったのだ。
「……ゼッタイニ……ユルサナイ……」
「……コノオンナモ……ジゴクヘ……」
「……タスケテ……クルシイ……」
「……ドウシテ……ダマシタ……」
人面瘡が言葉に似た音で形作られた呪詛を次々と発している。これは人面瘡の言葉ではない、銀鈴に売られた不幸な女たちの怨嗟の呪いだ。
この廃界は大河に挟まれた地の果てのような町だが、人間は川に住んでいるわけではない。水は上から下へと流れるだけだが、因果はきっちりと巡り、怨嗟は報復となって必ず戻ってくる。どんなものでも流れ着く廃界には、売られて身も心も朽ち果てた女もまた流れ着く。それも復讐の念を腹に抱えて。その獣のような悪意に乗る者を探すのは容易だったのだろう。例えば別の者が営む娼館、女王に憎悪へと転じた妄執を抱いた客、大輪の華に嫉妬する小さな蕾たち、華を摘みたい者は幾らでもいる。それこそ彼女が売った孤児よりも遥かに多く、数え切れない程に。その中に呪術を用いる黒社会の住人が居たことも、なんら不思議ではない。
「恨みを抱いた女への報復は酸を掛けるのは最近の流行だが、わざわざ人面瘡憑りつかせるなんて女の恨みってのは恐ろしいな」
朱雀が他人事のように言ってのけて、嘲笑うように銀鈴の胸の人面瘡を見下ろしている。そうだ、こんなのは他人事だ。そこまで深い恨みを抱かれるような悪事を働いた女、適当なところで切り捨てた方が後腐れも面倒も無い。それでも偽りと嘘で着飾った悪女を救いたいと思うのは、抱いてる内に男女としての情が湧いたのか、それとも単純に俺が肉欲に溺れた馬鹿だったのか。
店の奥から出てきた嘴のような面を付けた男の手で、炎で焙った手斧にも似た牛刀で人面瘡の顔が割られていく中、耳を塞がずにいられない断末魔の絶叫の中、そのままでもいいからせめて安らかに過ごさせて欲しいと男を突き飛ばした。その瞬間、生きる道を探すように突き出した歯にあたる部分が俺の顔に齧りつき、そのまま痛みと共に宿主を乗り換えたのだった。
「まるで餌付けされた犬っころだな、実に飼い犬向きな性格だ。馬鹿だが気に入った。今度ボクのところに来るといい、丁度飼い犬が1匹欲しかったところなんだ」
目を覚ますと見覚えのない机の上に血肉の詰まった瓶がひとつ、蓋をしていても酷く胸倉の中の臓腑を直に掴まれて噎せ返るように臭い、耳元ではがりごりと耳馴染みの薄い音が絶え間なく鳴り響く。いや、馴染みは薄いが聞き覚えはある。女王を抱いた時に耳にした胸元の肉の音。それが不思議と自分の耳の傍から、小さくしかしはっきりと聞こえてくるのだ。
慌てて体を跳ね起こして鏡を探し、壁に立て掛けられた姿見に目を向けると、そこには十は年齢を重ねてしまった見慣れた男の顔が浮かんでいた。俺は短い間に随分と老け込み、髪も髭も白髪混じりに荒れ果て、おまけに左側の頬から瞳にかけて人面瘡が貼りついている。
「よし、出来た出来た。おい、これでも着けてろ」
扉を開けて現れた朱雀が放り投げたのは一枚の仮面だった。下半分は鳥の嘴を模した奇妙な形で、上半分は硝子製の眼鏡が嵌め込まれた防塵面のような作りの面は、内側の左頬に接する部分に短い針が添えられていて、仮面を被ると人面瘡に突き刺さる仕組みとなっている。
「頬に憑りついた人面瘡は取れない。でも、その針に麻酔を塗っておけば、成長を阻害することが出来る。長生きしたかったら着けてろ、夭折したいなら知らんが、着けないって選択肢も無いだろ」
その通りだ、選択肢などない。半ば強制的な一択だ。生きるか死ぬか、そう問われてしまえば生きる以外の道を選べるものが、果たしてこの世にどれだけ居るのか。少なくとも俺にはその道は選べない。
「ついでに馬傑の名前は今日で捨てろ。そうだな、これからは鴉爪と名乗れ、明日から店番をしてもらう」
朱雀は欠伸を噛み殺しながら大きく腕を伸ばして体を反らし、似たような嘴面を付けたふたりに片づけを任せて店の奥へと引っ込んでいった。
「……なんてことがあったっすね」
「どうした、急に? 頭でも打ったのか?」
単なる世間話のつもりだったのだが、店主は怪訝な顔をして嘴細と嘴太の兄貴たちのところへ駆け寄り、あいつ頭がおかしくなったぞと普段通りに失礼なことを言ってのけてみせた。ちなみに兄貴たちの嘴面は人面瘡の対処ではなく、ふたりとも廃界に流れ着く前に負わされた酷い傷痕があり、それを隠すために付けている。
「店主、調子の悪い機械は叩けば治ると聞いたことがあります」
「鴉爪も叩けば調子を取り戻すはずです」
「ちょっと、兄貴たち! 勘弁してくださいよ!」
直後、いつものように尻を蹴り飛ばされたのは語るまでも無い話だ。
主話へ▶▶▶