世界と干物は猫のもの~森ノ黒百舌鳥怪奇収集録~
小生は猫である。名前は無いことは無い。
給仕係兼洗係兼下僕からはシュオと呼ばれている。文字にすると朔で新月や日蝕を意味しており、小生の体が月のない夜の様に真っ黒だから名付けたのだそうだ。
下僕は小生のことを十三歳くらいだと思い込んでいるが、実は小生、こう見えても四千歳を迎えようとしている。百歳を過ぎた日から尻尾が二股に分かれ、三百を超えた時には神通力を宿し、五百に達した頃には一帯の魑魅魍魎の類を支配し、千年に至ると尾の数は四十本まで増え、天上の世界に隠れ住む超常の存在なる神話や伝説の生き物たちの仲間入りを果たした。
だから世の中の大抵のことは既に知り尽くしているし、世界の理も大概はどうにでも出来てしまうのだが、そんなことをしても詰まらない。
この世で最も面白いのは、猫が猫らしく生きることである。余計な尻尾を隠して猫として暮らし、寝たい時に寝て、腹が減れば飯を食う、たまに下僕に毛並みを整えさせ、日々を猫らしく生きる。それに勝る退屈凌ぎなど、この世界には存在しないのだ。
そんな素晴らしき猫である小生に仕える下僕は、朱雀という名前の、小柄で細くてだらしない、実年齢より少々年若く見える容姿の二十五歳の暗殺者で匪賊の長で骨董店主で寂しがり屋だ。
下僕はフェイレンという匪賊集団を立ち上げて有象無象の荒くれ者共を率いているが、時折眠りの最中、すでにこの世にいない無惨な死に方をした父と母の名を呼びながら童のように泣いている夜がある。そういう時に小生は仕方なく早起きして、両足を揃えて慰めてやるのである。
さて、昨日のことである。
小生が下僕と一緒に魚の干物を食べていると、沖合に住むサイエンという元海賊が妙な碗のような小型艇を殴り、こちらに向かって飛ばしてきたのだ。奴は元々人間だったが、沿岸部での海賊行為では飽き足らず外洋へと活動範囲を拡大し、この世界の魔に触れて禁忌の獣へと成れ果ててしまい、今は巨大海坊主などと呼ばれている。
魔というのは文字通り魔だ、それ以外に説明しようがない。あえて詳しく説明するならば、超常の存在である竜との争いに敗れた種族で、海の底へと封じられた代わりに、その身を深海域に溶かして生き永らえた。深層でしか存在を保てず、沿岸部や廃界周辺といった浅層には溶けていないが、外洋にはサイエンのように魔に触れてしまった人間や生物の成れの果てが大量に生息し、それ以上の被害が出ないように世界から外洋航海術の一切を取り上げた。
とはいえ人間も懲りずに進歩を夢見る種族であるので、時折外洋航海へと挑む者が現われ、その都度サイエンのような存在に阻止されて、木っ端微塵に打ち砕かれたり、海岸へと放り出されたりするのである。そして時折、力加減を誤って小生と下僕の暮らす灯台跡へと飛んで来そうになるので、下僕に悟られぬように秘かに神通力を駆使して軌道を曲げて、沖の遥か彼方へと撥ね返したり堤防に衝突させたりしている。
「ちょっと見に行ってみるか。いいか、朔、ボクはちょっと出かけてくるから、いい子にしてるんだぞ」
下僕は皇帝とかいう大陸のそれなりの範囲を一時的に支配している人間を暗殺する為、宝でも怪奇でも種類を問わず価値ある物を探している。実に回りくどい手段だが、人間は意外と面倒事を選んでしまいがちな種族なので、それもまた仕方の無いことなのだ。もちろん小生が手を貸せば、今すぐにでも
国のひとつやふたつ亡ぼすのは容易いのだが、超常の存在に加わった時の契約であまり人間世界に干渉しないことになっている。彼らは意外と地上の生き物が好きなのだ、ゆえに過ぎた力を使うべきではない、という決まり事を守っている。
小生も郷に入っては郷に従えの精神で彼らに倣い、あまり余計なことはせずに下僕の暮らしを見守っている。人間が好ましい相手に手を振るように尻尾をゆらゆらと動かして見送り、退屈になったので欠伸をひとくさり溢して、付き合いの長くなった友人と今日も他愛のない会話をして過ごす。
『おい、サイエン。小生の家の方に妙な船が飛んできたぞ』
『猫殿、申し訳ない。殴る角度が悪かったみたいだ』
ちなみにサイエンとは思念で言葉を交わしている。人間からすれば不思議な妖術のような事象かもしれないが、三百年も生きれば誰でも出来るようになるので難しいことではない。むしろ尻尾を別々に動かす方が難しいのである。ちなみに小生、本気を出せば四十の尻尾を自在に動かし、一対づつ戦わせて最強の尻尾を決めることだって出来る。先日など余りに暇すぎてすべての尻尾を総当たりで戦わせて文句なしに最強の尻尾を決めたものだが、度の尻尾が一番強かったのかは翌朝には忘れてしまった。猫にはそんなところもある。
『しかし猫殿、人間は何故、外洋に出たがるのだろうな?』
『元人間のお前が言うな。人間は浪漫を抱く生き物だろうが』
『俺も人間の頃は不思議と生まれ育った村を狭く思い、広大に見えた海の外へと憧れたものだが、いざここに縛り付けられてしまうと外だの富だの浪漫だの、そんなものはどうでもよくなってしまった』
サイエンは陸に上がることが出来ない。深層の魔に触れてしまった際に海の中でしか生存できない体になってしまったそうで、海面から頭を出していられる時間も長くない。その代わり海の中では呼吸も自由で、海水さえ飲んでいれば食べ物も要らず、世間からは漁船を襲って人間を食う怪物と思われているが、断じて人間を食べたりなどしない。生前は敵の耳を削いで脅かすような鬼畜生だったそうだが、今ではもう小魚一匹口にしない平和主義者になっているのだ。ちなみに小生は魚を好む、肉はもっと好む。人間など食べたりはしない、虎なんかは人間でも食べるそうだが奴らも本当は馬や牛の方が好みだ。
『人間が魔に触れないように都度遠ざけているが、殴っても殴っても埒が明かんのだ、猫殿』
『殴るからだ。もっと穏便に話し合いで解決しろ、元人間め』
とはいえ人間には話し合いなど通じない。勿論殴ったところで話にもならない。人間は有史以来、暴力と殺戮と騙し合いで成り立ってきた生き物なのだ。猫が気高いと同様、人間は愚かであることが本質なのである。本質が愚かであるので、どういう方向に進もうと結局愚かな場所に着地することが定められているのである。
『ところで猫殿、朱雀嬢は何をしているのだ? 船の残骸を調べているようだが』
『下僕は価値のある物を探すのが趣味なのだ』
『ならば我が船に招待しよう。人間だった頃に敵から奪った財宝や武具がたっぷり積んである』
『気が向いたら伝えておこう、気が向いたら』
小生は立派な主なので下僕には本懐を遂げて欲しいと思うものの、この生活がいつまでも続かないものかと考えてもいる。何故なら小生、あの下僕の主だからだ。あの下僕は生涯、小生の世話をして生きるのが最も幸せであるに違いないので、くだらない道に進まないように尻尾を振って誘導してやらねばならぬ。まったく人間というものは手間のかかる生き物だ。
その後、時間を持て余したのでサイエンと思念会話を使った目隠し象棋を戯れ、しかし小生もサイエンもそもそも正しい規定を知らぬので結果いつものようにぐだぐだになり、サイエンが津波でこちらの駒を流そうとしたところを、小生が隕石で将を射って勝利を収めた。サイエンからは隕石は反則だと物申されたが、それを言うなら鮫だの津波だのを用いる奴にも否がある。
『猫殿、今日という今日は勘弁ならない! 三日間の絶交だ!』
『愚かな元人間め! 三日間、小生と喋れないからといって寂しくて泣いても知らぬからな!』
といった具合にサイエンからかれこれ数百回目の絶交を言い渡され、しばらく暇になったので毛繕いをしていると、
「聞いてくれよー。今日も大変だったんだぞー」
どうせまた馬鹿なことでもしたのであろう、憔悴した顔の下僕が帰ってきて、小生の背中を執拗に撫で回し始め、あまつさえ腹に顔を埋めて匂いを嗅ぎ出したのである。これは生物種と関係性によっては死刑になるくらいの大罪であるが、小生は他の生き物共と違って器の大きい主である。なぜなら四千年も生きているのだ、些細な事ではいちいち目くじらを立てたりしない。
「にゃあー」
小生、仕方なく下僕を気遣って一日の褒美にと前足を乗せてやった。その際、下僕の記憶を読み取ったのだが、どうやらサイエンが飛ばしてきた船に乗っていた女を使おうと試みたものの、どうやら蛮族も裸足で逃げる類の生き物だったようで、仕方なく船に乗せて沖へと追い出したようだ。下僕は基本的に心優しい人間なので、女が困らぬように食糧と水をたっぷり乗せてやったそうなので、下僕の心遣いが無駄にならぬよう、沖合三日程の場所にあるケモ・ゲノノ島にでも送り届けてやろう。あの島は外部からの侵入を徹底的に拒む習慣があるが、まあどうにかなるだろう。仮にそこで命を落としたら、それはそいつの寿命だ。
「うにゃあー」
海の上を彷徨う釣り船に沈まぬ加護をこっそりと授けておく。これで島までは沈むことはなく、魔に触れた怪物共に襲われることもない。流石に鮫や鯨までは面倒見切れないが、鮫も鯨も小生からすれば単なる食糧。そうだ、明日は鯨肉を持ってくるよう下僕に命じておこう。下僕は猫の言葉をいまいち理解出来てないところがあるが、小生の願いならきっと通じるはずである。
「みゃー」
「そうだよなー、ボクが迷惑料まで払うの間違ってるよなー」
まるで通じていない。この世にはやはり神などいない、猫はここにいるが。
「昨日の騒動は結局なんだったんだろうねー」
翌朝、下僕が小生の背中を手櫛で毛繕いしながら問いかけてくる。止せ止せ、世の中には知らぬことが良いことなど、春先の山の幸ほどあるのだ。当然その中には猫の秘密も含まれる。
「うにゃーん」
「はいはい、餌の時間だね」
小生、そんなことは言ってないが、食事を用意したいのであればさせてやろうではないか。まったく我が儘な下僕だ。特に腹は減ってないが、食べてやろうではないか。ところで昨晩、鯨肉を所望だと伝えたが、今日の食事は新鮮な鯨肉と考えてよいのだな。
小生が期待に腹を膨らませていると、下僕は昨日と同様に戸棚を開けて、魚の干物を解して更に載せているではないか。小生、それはもう食べ飽きているのである。鯨を出せと言っているのである。
「にゃあー」
「ほんと、お前は干物が好きだなー」
物分かりの悪い下僕め。こんなに物分かりの悪い人間がどうして生きていけるのか不思議で仕方ない。しかし小生は寛大な猫なので、今日も呆れた溜息を吐きながら皿の上の然程旨くもない魚を食べるのである。
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