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ワークショップの学び @藝大取手アートプロジェクト―ハロウィンラボ
矛盾するようだけど、「遊びじゃねえんだよ!」と憤るくらい遊ぶのが
遊びの本質だということを実感した一日だった。
大いに遊ぶ大人がいることは、おそらく誰にとっても、頼もしい感覚と違和感を同時に呼び起こす。フルコミットしてそう思うことはもちろん、コミットしないけれども、巻き込まれることで戸惑ってしまうことも、心の振れ幅という尺度では同じようなものだ。そういう感覚は「めまい」遊びなんだとカイヨワは言ったし、実際、いまいちノリきれていな「キョンシー少年」のさげていたバッグの正確な易の図像にはクラクラさせられた。
とんでもなくシャイな2人組の女の子と、その保護者が印象に残っている。
あの、期待と不安が入り混じって同居することで、何だかぎこちなくなってしまう感じ。保護者は不自然に距離をとることで子供たちが「トリックオアトリート」と自発的に発言することを期待する。でも、どうだろうか、ちゃんとお話しできるかは不安。。。
2人組の女の子は当然不安だ。不安で視線が定まらない。産まれたての小鹿のおぼつかなさ。でも期待に背中を押されて、蚊の鳴く声で何か伝えようとする。「卵は世界だ。生まれようとする者は、ひとつの世界を破壊せねばならぬ。鳥は神のもとへ飛んでゆく。その神は、名をアブラクサスという」とか言ったのはヘッセだった。アブラクサスは天国への導き手だけれども、そういった、たいそうな話ではなくても、十分な小さな革命が起こっていたように思う。