ごめんなさいのブラウニー
10年前のバレンタインデーに、ブラウニーを作った。
パルシステムのカタログにのっていたレシピで、ハート模様のブラウニーでクルミチョコをサンドしたもの。
(もしかしたらブラウニーではなくてチョコレートケーキだったかもしれない。ブラウニーとチョコレートケーキの違いは分からないけど。)
遠く離れた宮城県に住む母方の祖父母に、そのブラウニーを送った。
祖母はもちろんのこと、祖父も「すごく美味しい」と喜んで食べてくれていたらしい。祖父は甘いものを食べるイメージがなかったので、ちょっと意外だった。
その祖父は、3月の東日本大震災の津波で亡くなった。
わたしは、祖父とはほとんど話したことがなかった。
祖父は耳が聞こえない人で、発音もかなり不明瞭で、その上私がすごくシャイだったから、多分、会話らしい会話は1度もしたことが無いと思う。
覚えているのは、牛タン屋さんに行くといつもカレーを頼んでいたこと、トイレが長かったこと、独特の声と、笑った顔…そんなくらい。
会ったことがあるのも年に2,3回くらいだった。だからか、祖父が亡くなって、母や祖母が泣いているのを見るのはとても辛かったけど、祖父を失ったことによる「喪失」の辛さは、私は正直感じていなかった。
祖父の火葬の少し前、私がバレンタインに作ったブラウニーを棺に入れたいと、母から頼まれた。
その時私は、「なぜブラウニーを一緒に燃やす必要があるんだ…?」と内心戸惑った。
だけど、今にも泣きそうな母に何も言えず、私は黙ってブラウニーを作った。
ブラウニーは、可愛いラッピングの袋に入れられて、祖父と一緒に燃えて灰になった。
その後、私は、四十九日の法事に参列した。
だけど、百か日の法事には参列しなかった。
理由は、部活を休むのが嫌だったから。
中学校の部活あるあるかもしれないけど、先輩がとても怖くて、「休みます」なんて言おうものなら「それはどうしても休まなきゃいけないの?」「やる気ないの?」なんて言われてしまうもんなのだった。
今考えると有り得んほど理不尽だが、当時の私にとっては中学校が全てだった。
だから、四十九日はなんとか部活を休んだけれど、百か日の時はどうしても休むとは言い出せなかった。
部活休めない、と母に伝えると、母はとても悲しそうな顔をした。
その時の私は、まだ中学生で、故郷を失う辛さや、大切な人を失う辛さを、全然分かっていなかった。
「葬儀」とか「法事」、それから、家族が寄り添ってくれることで、傷ついた人がどれだけ救われるかということを、私は全然分かっていなかった。
というか、分かろうともしなかった。
私も私なりに、中学生なりの事情があった。
だけど、あの時もう少しだけ、傷ついた母に寄り添うことが出来ていたら、と思う。
今になって後悔しても遅いのだが。
だからせめて、東日本大震災から10年の今年、
10年前に作ったブラウニーを焼くことにした。
今度は母に頼まれたからではなく、自分から。
レシピは残っていなかったし、ネットで調べても出てこなかった。
何回か試作したけどそれらしくならなくて、サプライズにしたかったのに結構母に「どうやって作ったっけ?」って聞く羽目になった。
その後また何度か試作して、10年前と全く同じものは作れなかったけど、なんとか近いものが完成した。
母は嬉しいと思ってくれているだろうか。
直接本人には言えないんだけど、
母へ、10年前は、ごめんなさい。