9回目の入院
5月23日21時40分。
緊急で医療保護入院が決まった。
遡ること数日。
5月19日。
この日はきっと人生で最後になるであろう体育祭があった。
午前は体育祭練習で午後が本番。
私は練習の時点でしんどくなってしまい、友達と体育館を抜け出してしまった。
担任には「無理して出ろとは言わない。無理はしてほしくない。でも、のんさん達の学年は最初で最後の体育祭だから、めっちゃ、出てほしいとは思ってる。私も体育祭好きだし楽しさを知ってほしいと思ってる。でも無理してうつになって学校来れなくなるのも嫌だしそこは任せる」と言われた。
結局出ることにして、死ぬ気で頑張った。
多分これで頑張りすぎたのも、入院になった原因の1つであると思う。
「もういいや、もうどうでもいい、全てどうでもいい」そう思ってしまった。
5月23日12時頃。
貯めていた100mlのリスペリドンをODしてしまおうか悩んだ。
でも悩んだ末、助けを求めてみようと思いまみに電話をした。
仕事で出なかったから、LINEを入れておいた。
14時頃。
もう我慢できないと思った私は学校に行って、先生達に助けてもらおうと思った。
先生達は忙しい中、交代しながら私の話を聞いてくれた。
「もうあの家族とは住めない」
「あの家にいたら私が殺される」
「もう何も頑張れない」
「頑張ったのに報われない」
「死にたい」
「もう病院いけないなら私今日ODして死ぬから。今日OD出来なくても明日には絶対死んでやる」
「でもこのままだと強制入院させられてしまう」
「助けて」
主にこう言った。
担任がまみに電話をしてくれて、なんとか繋がり、私の助けは届いた。
病院には「お母さんと一緒にとりあえず外来に来てください」と言われたそうだ。
私は、
「え?とりあえず?ってことは…」
嫌な予感を察知した。
病院待ち合わせで、まみと合流した。
この頃はもう16時30分頃だったと思う。
2時間くらい待って、6時半過ぎに私の診察が始まった。
主治医に「もう限界。助けて。」そう言った。
そしたら主治医は「そーだよね、頑張り過ぎちゃったね。入院しようか。入院ってなったら知らない病院の閉鎖病棟の保護室だと思うけど、どう?」って聞かれたので「知らない病院なら入院しません。それに閉鎖病棟の保護室なんて絶対嫌です」と言ったが、主治医は困った顔して「でももう明日死ぬんでしょ?そんな危ない人をもう家には帰せないから、夜間救急で入院取ってくれる病院探してくるね」って言われて1時間くらい待たされた。
受け入れ先が見つかり、主治医に「まあ、多分入院になっちゃうと思うけど...お大事にね。待ってるからね」と言われ、受け入れ先の精神科単科の病院に向かった。この時にはもう21時15分を過ぎていた。
初めての単科の精神科。
ちょっと怖いイメージがあった。
着いたらちょっと建物が古くて不安になった。
「でも中は意外ときれいだな〜」って思いながら診察待ち。
15分くらいで呼ばれた。
女の偉い先生が診察してくれて、とても優しかったけど聞くことはちゃんと聞いてくる先生だった。
その診察の結果、入院の必要があると認められ、21時40分、医療保護入院に。
そのまま保護室に連れて行かれた。
「こんばんは〜」とそこにいたNsに挨拶しながら、Nsステーションから保護室に入った。
むき出しのボットン便器にカバーなしの布団、掛け布団。重い扉。
すぐに制服から病衣に着替えさせられ、Nsにブラも取るように言われた。
「あぁ、保護室に入ってしまったんだ」と実感した。
とても悲しかった。
落ち着かなかった私は夜中の4時過ぎまですごく狭い保護室の中を歩き回った。
次の日の朝、私の入院を取った先生が隔離告知書を持ってきて、いろいろ説明された。
数分後、違う先生が来た。
この時来た先生が私の主治医(現在も)になった。
中々心が開けず(かなりの人見知り)、主治医は優しかったものの、ほんとに信用していいのかもわからず、すぐには仲良く出来なかった。
この日から5日間、保護室で生活。
希死念慮がなかなか収まらず、「死ぬ為にご飯食べない!」という思考が復活。
4日間ご飯を食べなかったので点滴に。
その点滴をわいは勝手に止めたり、腕を押さえて点滴落ちないようにしたりしたら腫れてしまって刺し直し。
点滴を抜いたりもした。
そしたら「次抜いたら拘束して経管栄養する」と言われてしまい、それからは大人しく点滴を受けた。
保護室を出て、カメラ部屋で過ごせるようになっては保護室に逆戻りする日々を送っていた。
開放時間が出来たと思った矢先に首を吊って2つ扉に入れられたり。
入院中は悪いことばっかりしてたので、結局退院するまで普通の個室にすら移してもらえず、学校の単位がやばくなり、退院になった。
もうスーパー救急の精神科病棟に長期入院しないように頑張りたい。