私はどう生きるか (君たちはどう生きるかの感想)
こんにちは。まめです。
昨夜、ベットに入っても眠れず、何か本を読めば眠くなるかなと思い、たまたま君たちはどう生きるかを読んでみました。Kindleでは小説の扱いがなかったため、漫画版です。
結果、色々と考えさせられることが多すぎて脳がパンクしたので、頭の中に溜まっているものを吐き出してすっきりさせるためにnoteを書きました。
ということで、感想文と呼べるほど綺麗にまとめるつもりはなく、読み物としてはかなり程度の低いものになってしまうかもしれませんが、ご了承ください。
もし暇つぶしなどで付き合ってもいいかなという方がいれば、先へどうぞ。
まず最初に私が感じたのは、大きな混乱でした。
私が精神を病んでからの3年超、ずっと悩んでいることに真正面から著者(もしくはおじさん)の意思がぶつかってきて、思考が発散し、考えがまとまらなくなりました。
特に強く反応したのは、おじさんが主人公に説いていた、立派に生きるということ、一般的には「清く正しい」と呼ばれているであろう生き方についてです。
(ここから自分語りゾーンに入ります)
私も小学校や中学校の途中までは、明確な正しさや正義というものを持っていました。
その絶対的な指針が、「社会や学校のルール」でした。
先生の言うこと、学校で決められたルールに従う。
授業を真面目に受けて、たくさん挙手をする。
テストでいい点を取る。
道徳で習った通り、陰口を言わない、暴力を振るわない。
委員長や班長など、リーダーを引き受ける。
いわゆるいい子ちゃんでいることが、私にとっての全てとは言わずとも、私の中にある嘘偽りない正しさでした。
そうであれば、大人は褒めてくれるし、学校でも評価されて、周囲の期待がそのまま私の自信につながっていたんだと思います。
ただ、中学校の途中から綻びが生まれます。
きっかけは、先生の理不尽な要求や学校のルールでした。
強要されたルールを守らなくて怒られたり、やりたくもない合唱 (当時すごい音痴だったので周りに迷惑をかけたくなかったのもある) で休み時間を潰されたり、素直に従うことへの反発を覚えるようになりました。
今となっては、それが「大人や社会に都合の良いことを強要されていた」という側面があったからだと思います。
要求全てに応えていたら、主体性のある一個人ではなく、ただ都合のいい集団の一要素に成り果てます。これは私の学校だけではなく、奴隷教育と揶揄されることの多い日本全体の問題ではありますが…
ともかく、そういう経緯があって、社会のルールや期待に応えること=正しさという方程式は崩れ始めました。
その後、社会人経験を通して完全な崩壊を迎えました。
(高専では、ダラダラと楽しいゲーム三昧な生活を送っており、あまり大きな変化はなかったため割愛です)
1年目にしてチームメンバーの脱退が相次ぎ、私が仕事を全力でやっていたのもあって、主観では身の丈以上のタスク、責任を負うことになりました。
まだそれだけなら良かったのですが、さらにコロナをきっかけとしたフルリモートワークが始まり、その1年後から精神を病むようになりました。
多分、仕事で大きなプレッシャーを感じながらも、コロナによってそれを一人で抱え込んでいたことが原因だったのではないかと思います。
そのあたりから、ただ真面目に誠実に生きているだけでは、都合の良い人間として自分の肉体と精神を消費するだけになりかねない、という思考が頭の中を巡るようになりました。
さらにそこから悩むこと数年。
インターネットが発達した現代の資本主義においては、ルールやブームを作れる個(会社)の存在が圧倒的に強くなり、ルールやブームに忠実な集団は搾取されるという構図ができているように思います。
表面上では世のため人のためを掲げながらも、実際は自身の欲望や目的を果たすために手段を選ばない人や、ただ私腹を肥やす人も少なくないと思います。
主人公の父親やおじさんのいうような立派な生き方を貫く人は、この世の中においてあまり見かけられないような気がします。
つまり、この生き方では生活が立ち行かない可能性があるとも考えられます。
だったら自分が皺寄せをくらわない、賢い生き方にシフトするのが合理的です。
そう考えている中、この本を読みました。
そして、私が賢い生き方を選ぼうとする中、いまだに捨てきれない立派な生き方を選ぶべきではないのかと考えるもう一つの自分が刺激されたわけです。
ここまで長ったらしく私の正しさはルールに従うこで、それが崩れたと書いてきましたが、多分従うことそのものは本質ではありません。
私が私の中で「善い」と信じることに忠実であろうとする姿勢が核にあり、それがルールに従うという行動に現れたんだと思います。
つまり言いたいのは、私の中で立派な生き方と考えるものが一度崩され、別の道に逃げようとしたところで、君たちはどう生きるかを読んで再度考えさせられた、ということです。
ルールに従順で、バカ真面目に、誠実に、慎ましく生きるというのはもう選択肢としてあり得ませんが、それでも、賢く自分だけ損をしない生き方が正しいかと言われると100%納得することはできません。
また、これまでの内容とは少し脱線しますが、これも書いておきたいと思ったので追加します。
私は信号無視する歩行者(車に迷惑をかけた場合のみ)や路上喫煙する人を見かけたり、ポイ捨てされたゴミを見ると逆いようのない怒りが湧いてくることがあります。あくまでこれらは一例でもっとあります。
これは子供の頃からずーっと、繰り返し起こっていることで、ルールに背く行為そのものはもちろん、私の中にある善良の定義を違反していることへの反応だと思います。
ここで一番の地雷ポイントは、他人に迷惑をかけている、というところかもしれません。
人生の中で悩み、改め、変化してきた思考を持ってしても、幼少期に養われた価値観というのは、多分今後も変えられないのだろうと思います。
つまり、周りがどうなろうが関係ないと割り切る器用さも、自分の中の美徳に背いて生きるような図々しさもありません。
と、かなり色々書いてきましたが、まとめると「私の深層にあるいわゆる清く正しいものを信じたいという意思と、現実を分析して合理的な判断を下す理性で葛藤を起こした」というのが、この本によってもたらされた混乱です。多分。
作中の場面に無理やり当て嵌めると、友人達が上級生から制裁を加えられそうになった時、約束通り主人公が割って入るのが前者、自分が傷つかないことを選んだ実際の展開が後者、ということになるかなと。
実際には、これまでに言及してないものの関係しているファクターが他にもたくさんあり、それらが複雑に絡み合って、私は私の中にある正しさというものが何か見失い数年間悩み続けています。
ただ、おじさんのいうように、人がどうあるべきか、というものは誰かから教えてもらえるものでも、正解があるわけでもありません。
私がどれだけルールや先人の教えに従順であっても、それが正解にはなり得ないのです。
自身の性格、普段密接に関わる人たち、身を置く環境、世の中の情勢、それらを土台として自分自身が経験してきたことによって、時間をかけて形成されるものなんだと思います。
だからこそ、本は抽象的な内容にとどまり、本の題名にて「君たちはどう生きるか」と問いかけてきているのだと思います。
正直なところ、これ以上悩むのにも精神的に辛い思いをするのにも懲り懲りではあります。
ただ、心が痛みを感じるうちは正しい方に向かおうとしているというおじさんの言葉も納得できます。
せめて私にもメンターがいたら、という気持ちで、もう少しこの問題に付き合っていくことになりそうです。
他にこの本を読んだことのある方と、一緒に感想とか言い合えると嬉しいですね。
それによって、お互い何か手がかりを掴める可能性もありそうです。
読んだ直後から今日の午前にかけて考えたことはこれの5倍くらいありそうですが、いったん吐き出して脳が落ち着いたので締めます。
身体的には健全なのに、やけに頭だけ重たい状態が続いていて困っていたのが発散によって解消されました。
個人的には、結局これを突き詰めていくと心の豊かさに関する命題になると感じています。
現代社会では物理的に相当豊かであっても、心の豊かさを阻害する要因というのは無数にあるので、なかなか解消が難しい問題ですね。
発展は人の「暮らし」を豊かにしますが、「精神のゆとり」というものは不思議なことに完全な正の相関ではなさそうです。