「小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「婆(ば)さま、おれも年 老(と)ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌(や)んたよな気するじゃ」」
これは小十郎にとって大変危険な言葉だ。この後にも描かれるが、小十郎の仕事は、沢を何度も渡らなければならない。だから、「水へ入るの嫌(や)んたよな気する」というのは、今日は仕事に出たくないという意味になる。それで、なぜこの言葉が危険なのかというと、これは明らかに弱音だからだ。「年老った」ことによる気力の減退。水に濡れれば体力が消耗する。つまり、気力・体力ともに、猟には対応できないという意味の言葉だ。小十郎の仕事は、ただの仕事ではない。熊と戦い、それに勝たなければならない。負けは、自分の死を意味する。だから、仕事に出たくないという状態で猟に向かうのは、大変危険なのだ。
これまでも時にはこのようなことを思ったこともあるかもしれない。しかしそれを言わなかった。いま、小十郎は母親に言ってしまった。他者に弱音を吐いた。小十郎は弱気になっている。
小十郎に「死」が迫る。