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銭湯と温かさの秘訣

段々と寒くなってきた今日この頃。今回の日刊かきあつめのテーマは「 #温かい話 」だ。

間もなく、都内で一人暮らしをして4回目の冬を迎える。寒くなってくると行きたくなるのが、銭湯である。

自宅はユニットバスなので、足を伸ばしてお湯に浸かれる銭湯は、寒くなると週1回以上は必ず行くようになる。家から徒歩10分くらいのところに銭湯があるので、とても助かっている。

お湯に浸かって足を伸ばした瞬間、身体と共に、冷え切った心まで温かくなる。家の近くに銭湯があって本当に良かった。ありがとう、銭湯。今後引っ越しても、銭湯が近くにあるかどうかは大切な判断基準になるだろう。

もういっそ、1階が銭湯のところに引っ越しても良いかもしれない。自宅から徒歩0分で行けるなら、週1回以上と言わず、毎日で行ってしまう。

田舎から都会に引っ越してくる人がいるなら、ぜひとも銭湯が1階にある家を検討してほしい。慣れない都会の生活も、銭湯さえあれば大丈夫だから。

さてそんな、田舎から上京してきた少女を主人公にした映画『私は光をにぎっている』である。

両親を早くに亡くし、祖母と2人で民宿を切り盛りしていた宮川澪は、祖母が入院したことがきっかけで、民宿をたたむことになってしまった。

そこで父の古い友人である涼介を頼りに上京し、彼が営む都内の銭湯の2階で暮らしはじめる。慣れない都会生活に苦戦する澪だったが、銭湯の仕事を手伝うようになり、常連客との交流を通じて自分の居場所を見つける。

しかしそんな生活に慣れてきた頃、都市開発の影響で銭湯を閉店しなくてはいけなくなってしまい・・・というお話だ。

「毎日タダで銭湯に入れるなんて最高かよ!」と私なら思うのだが、人見知りの澪にとっては、都会の生活は苦しく、自分を変えようと頑張るも、ことごとく都会の荒波に打ちひしがれてしまう。

そしてようやく出来た居場所ですら、都市開発という大きな波に飲みこまれてしまう。

しかしその閉店の間際、澪はあることを決行する。その行動にはただ都会の荒波に晒されていただけではなく、彼女なりに少しずつ変わっていた結果が垣間見えるのだ。


(と、ここからはネタバレも含めた考察になるので、気になった方は先に映画をご覧ください!)


この映画を撮った中川龍太郎監督は、これまで『走れ、絶望に追いつかれない速さで』や『四月の長い夢』など、一人の人物を中心に、その周りの日常を切り取るのが上手な監督だ。
自分とは異なる境遇の主人公であっても感情移入を促し、最後には主人公と同じ気づきをくれる作品が多い。

今作の切り取られた日常の中では、特に澪が働くスーパーと銭湯の対比が印象的である。

澪は都内に来て仕事を探すもなかなか見つからず、やっとの思いでスーパーの仕事を始める。

スーパーで決められた仕事を淡々と行うが、急にお客さんに声をかけられた時に対応できず、お客は怒ってしまい、同じアルバイトの高校生には冷ややかな視線を浴びる。ことごとく冷めた空間である。

一方で銭湯はというと、最初こそお客さんの冷めた対応はあったものの、次第に親しくなっていく。そこには多少口下手な澪であっても受け入れてあげようという温かさが垣間見える。

スーパーは「セルフサービス方式で商品を選び、レジでまとめて精算する」という、人との交流が必須な八百屋に対するアンチテーゼの形で生まれた。まさに澪が育ってきた民宿、そして居候する銭湯とは真逆の存在である。

スーパーの仕事はあっさりと辞めてしまった澪であったが、銭湯が閉店する時には「友人が撮りためた住む街の映像」を銭湯で上映することを思い付く。

物語全体を通じて、冷たさ温かさの対比が分かりやすく描かれる。そして温かさを作るには人たちであり、もっというと自分が作るのだと気づく。

都会に出てきた頃の澪は「しゃべらないことで自分を守っている」と友人に言われる。もしかしたら田舎では、しゃべらずとも温かさを感じられたかもしれない。しかし本来は自分から働きかけなければ、温かさは得られないのだ。

都会に出たことで澪は「温かさは自分がにぎっている」と気が付くのである。

***

都内で一人暮らしをして4回目の冬を迎える。私は温かさを求めてばかりで、かえって冷めた人間になっていないだろうか。

自分から働きかけて、温かくなる術を忘れずにいたい。


編集:香山由奈


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