chapman 2ndEP「MIRRORS」
2021.1208 0:00
本日リリースの"愛の行方"をテーマとしたchapmanのnewEP『MIRRORS』
今回のEPの感想を端的に書いていきたい。
注釈として、あくまで私自身の捉え方であり感想であるということは理解してほしい。どうか。
1.Mama's Doll
ライブで聴き、撮った動画を何度も見返してきた曲。ノれる曲調に嘲るような歌詞。私が強く持つchapmanの許しのイメージからは遠いけれど、やはり言葉はchapmanであるなと感じた。左脳は論理的な印象を導くワードだけれど、対峙する感情であったり本能的なイメージをもつダンスというワードをつなげた「左脳主体のダンス」。感情的に見えているのも作り込まれた偽りの姿なのだろうか。娯楽や自由な羽は得ることのできない仮定としてあって、楽しそうな表情の底に、不自由で薄い愛を受け入れていない姿勢をみた。縛れないぜと言うその表情はサラリと笑い躱すような顔だろうか、愛のない死んだ表情なのだろうか、それとも睨みつけるような強さなのだろうか。
2.Julia
以前あげたものの引用に書き加え載せます。
これは人に限らずだけど、愛の行き着く先がどこなのかと言うのは永遠に解決できない問題であると思っている。命尽きたその先まで、その先の底まで、愛を持ち続ける覚悟。そこに本来荒んでいるはずの地獄と愛を重ね美しさを持たせていて、やっぱり私の好きな歌詞の在り方だなあと。奈落から救い出す力を愛とせずに、共にあり続けるものとしている感じが好きだ。「一緒に死のう」と言うのも「一緒に生きよう」と言うのも、同じくらい残酷で、それから、同じくらい愛だ。
3.MONSIEUR
敬称やあなたという意味の語だけれど、この言葉には君主的な意味が含まれている。台本でなく戯曲という点が好きだ。その二つは同じようで決定的に違う。形を成す為でなく作品としてあって、だから、この先に描いていた展開は演じられる台本になることなく作品としての戯曲で終わった、と、私はそう捉えている。
ここでの愛は、いくら背こうとしても結局は逃れることのできない愚かさと、その根底にある忠誠にも似た依存から成るものなのではないかと思った。それに気づかず切り離したと思い進んでいるところに虚しさやるせなさのような何かを感じた。きっとこの愛は、どこへ向かっても、どうやってもその一定の範囲からは離れられない。
4.迷子
この曲は伝えることのできない自分よがりな愛のように感じる。65℃は水で考えると、沸騰し初めの泡が立つころの温度だ。沸騰し切れば気化することができるけれど、しきれずにフツフツと湧き上がるだけ。どうしようもなく好きなのに、きっと抑え込めてしまう何かがある。「見慣れた錠剤」が精神安定剤だとして、見慣れたと言うことは自分も相手も不安定だということになってしまう。自分が愛を向け不安定になっている対象もまた、何か別のものへ同じように愛を向けていて、だから知るほどに辛くなってしまう、というのが歌詞からとる私の考察にも満たない空想だ。愛が強いからこそ、吹っ切れて尽きる事ができない、猛烈にもどかしく苦しい。
5.PLACE
明らかに他の曲とタイプが異なっていて印象的だからかもしれないけれど、今回のEPでいちばん好きな曲。もっとも、どの曲も最高に良いと言うことは前提として。イントロからほろほろと凝り固まった何かが解けていく。これは様々な苦しみや負担への気付きであり、それを認める事で許すことができる。悠然と前へおしすすめるこの曲は、自己愛だ。前への活力ではなく、進むでもなく、おしすすめる、だ。
地図がなくても自分が歩くべき道がわかります。この曲がくれた希望があるので。希望があれば今すべきことがわかる。歩くしかないっていう、炎みたいな、氷みたいな。だから、希望を残してくれたことに本当に感謝しています。この先にある愛、きっと、だけれど確かに疑いのない希望だ。
6.yoake
PLACEが最も好きだと言ったが、正しくは、PLACEから yoakeの流れを含め好き、だ。このyoakeこそがたどり着いた先にある確かな愛なのだ。生まれた傷をいたわるはじめての沐浴にも似た戸惑いの手で、私はこの曲をおそるおそる、でも大きく確かに抱きしめていたい。この曲ならそばにいてくれるんだ。前を向かせるような強い力でも、どうにかしようという努力でもなく、ただ当たり前のように寄り添ってくれる。私がどれだけ変わって、今好きでいるものも好きじゃなくなってしまうような、そんな力学に負けてしまっても。光さす朝が来るまで、そう言っているけれど、きっとその先も光溢れるその中でもそばにいるんだ。私にとってこの曲のように側にいてくれる愛とはなんなのだろうか、私の愛は何に向けているのだろうか。この愛は当たり前じゃないけれど、当たり前にあってくれる、そんなあまりにも大きすぎるあたたかな愛なんだ。
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〜のような、〜みたいな何か、〜的な、などうまく言葉にできないけれどどうしても言葉にしたくて、完全を伝えることはできないけれど伝えようとしている姿を伝えたくてこのような文章になってしまった。音楽が特別できるわけでも何か言えるわけでもなく、わたしは言語表現しかしてこなかったので歌詞や曲調についてばかりになってしまっているが、音楽も、言うまでもなく素晴らしい。メロディーだけじゃない、それぞれの音、各ソロのかっこよさ、繊細だけれど重要な揺れ、そのほかにも、そのひとつ一つが美しくカッコ良い。
ここには5つの異なる愛があるようにみえるが、5つじゃないんだ。世の中にある愛がではなく、ここにある愛が、だ。私の受け取った愛はきっと、極近かったとしても作り手とはまた違う向きや色をしていて、さらにこの文章を読んだ人が得た感想もまた違くて。こうしてひとつの音楽に対して何百、何千、それ以上の作品が生まれるのだ。愛の見方もそうだ。
正誤ではなく私がこう考え感じたということだから、どうかまた別の文学作品とでも思っていてほしい。
感情が底を打ったような時に、「世界が色を失った」と感じることがある。でも実は単に世界を見ることをやめたということであって、失ったのは視力ではなく世界を見る気力だ。chapmanの音楽を聴くと、観ると感じると、みるみる世界に色が蘇り、鮮やかで繊細で清らかになる。それは世界を見る気力を取り戻したと言うことだ。彼らの強靭で透明な音楽に対する愛が、この先も確かな光として私たちをくるんでいくのだろうな。
どうか多くの人が、正しいだけでない世界を丸ごと許すこの大きな愛に出会い、そして救われますように。わたしはこの世のすべての歓びを、ひそやかに信じ切っている。
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