言葉にすることについて
昔からつけているノートがある。適当な言葉や綺麗とか面白いとか思う言葉を書いたノート、それを初めて友人に見せた時「なんのために文を書いてるの?」と聞かれた事を思いだした。この『note』を知り合いに見せたら全く同じことを聞かれた。正直よく分かってないし理由も特にないんだと思う。
ただ、文章を書くようになったのはいつからだろう、どうして書くようになったのだろう、とは考える。というか聞かれて考えさせられてしまった。
多分きっと、もともと自己表現というか、思いを伝えるのが苦手で、それが始まりの理由の一つな気がする。言葉を考えすぎて終わったり、相手を考えすぎて終わったり、くだらない話は「何考えてるか分からない」と言われたあの日からあまりしなくなった。言えなくて黙っていると「何かあるなら言ってよ」話すと「何それ変」「違くない?」に疲れてしまって、気にしすぎてしまって、最近では本当に言いたいことを避ける『気にせずなんでも話している風』という技を身に付けてしまった。間が怖くて埋めたくて、とにかく何か話さなくてはと思う時もこれを使う。かなりのハッタリ技なのに、興味がないおかげで誰も気づかない。これはありがたい。
こうして行き場を失った言葉や感情を、落書きのように書き留めたのが始まりなんだと思う。
自分の中には言葉を入れられる箱があって、言わなかった言葉や思いついた言葉なんかがどんどん入れられていく。その箱がすぐいっぱいになるから、出していいものを選定し、定期的に外に出していかないといけない。そうしないと、選んではいけない言葉も関係なく飛び出しちゃうんだよ。それに、すべての感情において、高まったりいっぱいになったりすると『泣く』に近づいてしまうので、箱の崩壊と共に泣いてしまうだろう。そんなわけで文章を、それだけでなく、絵も、音楽も、。あえて理由をつけるならこうゆう事なんだと思う。
そう自分について考えていたら、とまらなくなってしまった。どんどん色んなことを考えてしまう、言葉についての。
二十歳を目前にして、もう少し自分のために言葉を使ってあげても良かったな、という後悔がある。十代は自分のために言葉を尽くすべきだったし、全人類をバカだと思っているべきだったし、誰も自分の気持ちなんてわからないなぜなら私は天才だから、とナチュラルに思ったらよかった。冷静に考えれば、その話相手のために生きている訳じゃなかったんだから、こんなに悩まなくてよかったんだ、変な技を身に付ける前に気づいてあげられなかった。『~った』を乱用していることからもう戻れないと事実が浮き彫りになっているなあ。
言葉を選んでいるのに傷つけてしまうのはいったいどうしたらいいんだろう、大切な人ほど傷つけてしまう。それじゃあ、あの時私を傷つけたあの人も、本当は私を大切に思っていたのかな。ちがうか、それは流石に都合が良すぎるか。
私は、どんな名誉より、どんな達成より、無意味で何の利益もない話を聞いてもらえる時、生きている気がするし、それが本当に生きていることなのでは、と思う。くだらない話を何も気にせずできなくなってしまったと書いたけど、今はごくわずかに、受け入れてくれる(多分)人達を見つけた。私にとって彼・彼女たちの存在は『反物質』の価値でさえ霞むほどの希少性と価値がある。
どんなに箱が壊れてしまっても、自分のために言葉を尽くしても、いなくなってほしくない人を傷をつけないように言葉を紡いでいかなくては、結局、言葉って難しい。理由も意味も価値もない私の言葉だけど、きっとずっと書き続ける。難しいけど必要不可欠で、なにより面白いな、言葉。
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