ひらかれておきたい
「差し出すのではなく、ひらかれておきたい」
ふとそう思った。
わたしはこれまで、差し出そうとしてしまうことが多かった。身を乗り出して、手を差し伸べてしまうような。
しかし一方で、わたしの愛の在りかたとして、泉のようでありたいとも願ってきた。
わたしはここにいて、すきなときにすきなように、見つけたひとに掬って飲んでもらえたらいいと。わたしはただここで渇きを癒す冷たい水を与えうるものとしてありたい、と。
この在りかた、愛に満ちあふれるようなこの在りかたは、とても難しかった。
わたしは枯渇することが多かったために、いつでも泉であることはできなかった。枯れてしまうとき、時期がめぐって土がうるおってくるとき、あふれて流れ出すときがあって、いつでもこんこんと湧いていることはできなかった。
与えなければ、発散しなければ、という観念が先行するために、飲み水を口許まで差し出すことを、わたしのやりたいことではないというのに、ついやろうとしてしまう。受け取ってもらわないと、わたしの愛がないことになってしまうようだったから。
しかしわたしは、そうでなく、ひらかれておきたい。
ひらいておきたいのではない、ひらかれておきたいのだ。
わたしがわたしをひらくのではない。能動ではない。わたしが他者にひらかれるのではない。受動でもない。
ひらかれておく、というのは、どちらともいえず、大いなるものとわたしの流れがしっくり一致するような場で、中動態でいることだ。
ひらかれておくことは、ひらかれておくことだ。差し出すことでも受け取ることでもなく、またそのどちらでもある。ひらかれておくことは、どちらもが同時に可能になること。わたしという開かれた場で、交換が、循環がおこなわれるということ。
ひらかれておくことは、被傷性をあらわにすることでもある。傷つきうるこのからだを、この存在を、世界にあけひろげにするから。
あなたはわたしを傷つけることができる、と言うことだ。あなたがわたしを暴いてもよい、と微笑むことだ。それは存在の贈与であり、関係の端緒である。
傷つけあうことが関係なのだとしたら、ひらかれておくことはあなたとつながりたいと願うことだ。
傷つきうるよわい、あたたかい存在としてひらかれておくこと。
ひらかれた手紙としてここに置かれていること。
それはそこにいる誰もが手にとって読むことができるということで、あなたの手にとって読まれたいと願うことだ。
差し出すのではなく、ひらかれておきたい。
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