【taboo持ち寄り会×かたりのヴぁ vol.22 他人と一緒にルールをつくること 20241015 】 イベントレポ文責:Aki iwaya、特定非営利法人クリエイティブサポートレッツ/曽布川祐

taboo持ち寄り×かたりのヴぁ vol.22 【他人と一緒にルールをつくること】
2024年10月15日 20:40-22:15@ぶんじ寮の食堂あたり

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【他人と一緒にルールをつくること】
...この言葉のイメージはどんな感じ?
そしてこの言葉から、一人称のあなたの経験は語れそう?

ポジティブネガティブ、どちらもあって、どちらでもない?
この言葉を聞いたあなたのなかの反応したなにか。
言葉になる部分と、そうでない部分。
いや、いずれにも収まらないところ、あったりしませんか?
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参加資格:人は集まって話せる、と思う人&思わない人
持参:それぞれの1人称の意見やストーリー。その場で沸き起こったことを大切にする気持ち。

場のルール&イメージ:
・人の意見は否定しない…説教・アドバイスも不要
・話すことと聞くことは、同じように大切なこと...沈黙も大歓迎(ひと言も喋らなくても構いません)
・共感よりも、意見の出会いを重視したい…安易に肯定しない。肯定の雰囲気をつくるより、自分の内側に集中してみてください。
・「1人称」で喋ってみる…3人称(世間が、あの本の作者が、会社ではetc)で喋ると、ほかでもないあなたが喋る必要がすり減っていきます。自己紹介は要りません。

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るんるるん〜 あきです◎
今回は、浜松のNPOクリエイティブサポートレッツと共催!

レッツスタッフの3人&利用している2人もそれぞれの方法で参加&オンラインでレッツのスタッフも5名ほどタブレット越しに観覧するなかといった状況。
会場の食堂テーブルには、ぶんじ寮の住人がじぶんを含めて3人、他にレッツ目当て?の人を含めると10名程度いただろうか。
なかにはテーマを知らない人も。会のルールは冒頭で説明したが、理解しきれていない人も。聞くだけの人もいつもより多い印象が残る。

場はシャワーに行きたい人がいたりで遅れて始まり、しばらくは共同キッチンから料理中の住人の談笑が大きめに響いている。

施設の鍵のルール、それをなくして別のルールをつくることを考えたときによぎる思い。
いのち、守る、相手の、利益。
他者を思いやることがルールを立ち上げさせ、同時に、引っ込ませることを難しくさせる。
ールールはつくるより、変えたり、廃止するほうがよほど難しいのでは?
ルールは、運用とセットで考えないと意味がないのでは?
ルールは、明示されたルール以上に、明示されないルール=メタ的なルールのほうが実際には影響力を持っているのでは?

いや、「ルール」と言った途端に、守るor 守らないの「二項対立」(AでなければBで、BでなければA。その2つ以外の選択肢は存在しない)の罠に陥っていないか?それ以外の態度もあり得るはずなのに。
ルールをつくろうとした人の根っこにある気持ちを考えてみたらどうだろう。
不安、安心したい、ラクになりたい、もっときもちよくしたい、もう終わりにしたい、ほかには?

(じぶん自身に関してだけで考えるなら)「ルール」があるって思ったことはない。ルールってあくまでパワーバランスだから。そのルールが嫌なら、ルールの及ぶ範囲の外にでてしまえばいい。

だが、「他人」と一緒につくるならどうか?
ー私は、他人と一緒にルールをつくるのなら、その他人=相手とコミュニケーションがとれる/意思疎通がどの程度可能か?によって、大きく左右されてきた、との経験を置いた。
そして、意志疎通ができない、と感じた後の私の判断によってこそ、私の人生が構築されていくように感じているということを。

そう、コミュニケーションのとれない状況や圏域に反発でき、外に出ていかれる人間はいい。
だが、外に出て行けない人間はどう扱われるだろうか?
「不登校」とされ、その社会組織の「不適応」者とされ、一方的に負荷を負わされる。この構図は不当で、看過できないと思う。

大きな(国や共同体の定めた)「ルール」のことは、じぶんのルールとは感じないので、マイルールにフォーカスするのだという人も。法だけが気になるという声もあった。
声の大きい人やルールを無視する「鈍感」な人への対応の差異も置かれた。じぶんが他の場所へ出て行く、じぶんのことだけ気にする、敏感なじぶんがつらい、じぶんのキャパが広がるからあえて別の感度を持つ他者との場に居るのだ等。

ときおり、住人が木製のスライドドアを開けて入っては、出ていく。

「ともだちは、また必ず会うのがいいですね」
法までいかない大きさのルールを挟んで向かい合う相手だから。いっかい破っても、苦しくないんだなあ。
終盤にそんな言葉が置かれたことを、いま思い出しながら振り返っている。


そういえば、「この会はドネーション制です」と伝えるのを忘れた、と会が終わってから気づいたことが再び浮上してきた。
ドネーション制です、と伝えることには負荷があるように感じているのだろう。
他人に自発性を発揮することを期待しています、ということをルールとして強いるのは負荷なのだろうか。
伝えるのを「忘れた」のではなく、奥に押し込めたのかもしれなかった。私のなかの、どこか奥の方へと。だとしたらその負荷は、どこへ向かうのだろうか。

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特定非営利法人クリエイティブサポートレッツ 曽布川祐

東京行きに同行したK君は、他人と一緒にお風呂に入りたがらなかった。裸を見られるのが恥ずかしかったらしい。男同士なら気兼ねなく裸の付き合いができると思っていた私の考えは甘かった。何度か促したが駄目で、K君は結局一人用のシャワールームを使って身体を流した。一方、同じく同行したT君は身体も洗わずに浴槽に飛び込んだため、溜めてあったお湯をまるまる駄目にしてしまった(T君は、大便の後の尻の拭きが、いつも不十分なのだ)。
そんなドタバタで私は開始予定時刻から35分も遅れてイベントのテーブルについた。皆、トークを始めずに私を待っていてくれていた。私には、それが驚くべきことに思えた。「待つ」ということは「潜在的なものを信じる」ということで、それはいつでも私にとって難しいことだからだ。
私の同僚を含む10人ほどの参加者の方々がすでにテーブルを囲んでいて、入り口から一番近い席が私のために空けられていた。扉を開けると、一歩半でその席に座ることができた。テーブルの後方の窓際にはzoomの繋がったiPadが固定されていて、その画面には浜松にいる同僚たちが映っている。すべてが知性的な引力を中心にしてパースペクティブが測られている、という印象を受けた。往々にして、それがイベント=出来事というものなのだが、それにもまたいつも驚かされずにはいられない。何も起こらないようにして、何かを起こすこと。日常的な事物の裡に沈み込んだポテンシャリティをいかにして顕現させるのかについて、常に取り組んでいる人たちがいること…。
夕食を食べそびれていた私は、食べながらトークに参加した(このとき食べた同僚が作ってくれたポトフが、二日間の旅程で食べたものの中で一番おいしかった)。あまり食べすぎると腹が重くなって頭が使い物にならなくなる。気をつけながらゆっくりと咀嚼した。
「ルール」という言葉は、尻取りで使うと嫌がられる。ただでさえ少ない「る」で始まる言葉をもう一度探させる言葉だからだ。日常的な言語体験の場でも、「ルール」という言葉には相手の言葉尻を取ってやろうという力が働いている。「ルール」は尻の取り合いによって、有効化することも無効化することもできるからだ。日常でも尻取りでも、「ルール」という言葉を使うときには、同時に気も使うことを求められる。
イベントが始まった。皆で「ルール」について話していると、少しずつその言葉の指すところのものの輪郭が浮かび上がってくる。発言者の多くが「ルール」という言葉を自明なものとして使っているが、実際にはそれは話しながら徐々に見えてくるようなものなのだ。あらゆる言語は、使われ始めた途端に、辞書的な意味から飛び立ち、そこから離れていく。初対面の人たちが集まって、その場で一つの言葉が確かなものとして熟成されていくには、それなりの時間を要するということだ。
言葉の輪郭がはっきりすると、それをズラすこともできるようになり、議論に厚みが生まれ、その発生について語ることもできるようになる。すなわち、「ルールとは何なのか?」といったメタ言語が使えるようになる(しかし、私たちは本当ならば、「ルール」についての長い歴史を語ることはできず、共有した短い時間におけるその発生と成長についてしか語ることはできないのできないのではないか?なぜなら、私たちが本当に共有できるのは、それについて共に語り合ったこの時間なのだから)。
イベントの終わりも近づいた頃、参加者の方の一人から、「法律」に対する言及があった。たしかに、「法律」は「ルール」と共通するところのたくさんありそうに思える。一つの国の中で暮らす以上、法律は避けがたい強制力を発揮する。その参加者の方は、「法律は国家が暴力を独占するための道具だ」というような強い表現も使っていた。暴力の独占…。それは確かに国家の持つ欲望であるかもしれない。しかし、それは本当に実現されているのだろうか?
『リーサルウェポン2』という映画のラストシーンに、上の問いについて考えるためのヒントがあるように思える。この映画の主人公は二人の刑事だ。船の上で片方の刑事が撃たれる。撃ったのは、外交官特権を持つこの映画の悪役だ。悪役はその特権ゆえに、その国の法律で裁くことができない。言わば、治外法権でやりたい放題、というわけだ。怒ったもう一人の刑事は悪役に向けて銃を構えるが、悪役は余裕の表情を浮かべる。外交官特権という「彼の国の暴力」によって守られている悪役は、「此の国の暴力」を行使するる刑事にはどうにもできない、はずである。しかし、刑事が構えている一丁の銃には、引き金を引くだけで行使できる「個人的な暴力」が留保されている。それは、刑事が代行している「此の国の暴力」であると同時に、刑事自身が彼の意思で遂行することのできる「自由意思の暴力」なのだ(「自由意思」は、三次元世界に生きる私たちに特有の性質だ。そのことを表現するように、このときの悪役は刑事を頭上高くから見下ろし、刑事はそれを見上げるといったような立体的な構図が採用されている)。結果、刑事は悪役に向けて発砲し、発射された弾丸は悪役の頭部を撃ち抜く──。当然、半分は「此の国の暴力」の代行者である刑事は、その代行範囲を超える暴力を行ったのだから、何らかの措置をとられる必要があるだろう(映画でその部分は描かれていない。恐らく、正当防衛を装うなどして、うまいことやったのだろう)。しかし、ここから、私たち一人一人の手にはすべからく「暴力」が握られており、それを行使するための隙間は常に私たちの日常の中に見出すことができる、ということを確認することはできそうである(私たちは、程度の差こそあれ、誰しもがある程度は法律を破りながら暮らしている。そして、裁かれざる犯罪はわんさかある)。

私たちは、独占された暴力の下でおびえながら暮らしているだけの存在ではもちろんない。だからこそ、こうして一つの場に集まり、それぞれの意見を交わすことに何らかの意義を見出してもいるのだ。私たちは暴力を行使することも、他者からのそれを避けることもできる。それが、空間性を持つ「三次元」の「自由」だ。私たちは、物事を右から見ることも左から見ることも、上から見ることも下から見ることもできる。だから、右から見た私の意見は、左から見ている別の人からは違ったものに見える。上や下から見ている人とは、「同じものを見ている」という確認をし合うことすら困難かもしれない。それが、三次元世界で生きる=自由意思を持って生きる、ということの意味だ。私たちが共有する場と、私たちが私たちであることの集団性、それらが個々の自由意思を持つ個人の集まりなのだということは不可分に結びつけられており、相互に連関しながらその意思の実現と同時に制限でもあるという複雑な空間の織物を織り上げている。

K君は、イベントの間中ずっとテレビでサッカー中継を見ていたが、終わり際になってそのまま寝てしまった。T君はソファでごろごろしならがニコニコしている(彼は、その後も夜が開けるまでソファから離れなかった)。私は出してもらったポトフを食べきれずに少し残してしまった。カーテンも雨戸もない会場の窓の向こうは暗闇で何も見えず、部屋の中にいる私たちの姿を反射している。
私には、不明瞭なものほど自由な力を持っているように見える。しかし、捉えられぬものは共有可能性を持たないし、それが「わたしのもの」になることもない。わたしがわたしであることを逃さぬように、彼が彼であることを逃さぬように。しかし、常に逃げ道はあり、そこには誰でもない人、何でもないもののための居場所がある。私は今どこにいるのか。
わたしはテレビの前で眠い目を擦るK君を誘い、コンビニを求めて夜の闇の中へ出て行った。道中、K君に「ルールって何だと思う?」と尋ねると、「しらん」とだけ応えてくれた。

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