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「普通」の範囲

こんにちは、まりりです。

「教育」について色々考えていたら、「学校」ってどういう場所なんだろう?と考えてみたくなりました。また、そもそも「教育」って何だろう?などなど とりとめもなく思考が広がっていきます。(え? そんな広がらないですか(笑))



☆今の小学校の様子

息子たちの通う小学校でのいろんな子ども達の様子を見て、ここ数年感じているのは みんな表面的にちゃんとしている子が多い ということです。そして、先生方も大多数の「ちゃんとしている子」にあわせて授業を行います。40名程度の生徒を一度に見る上で、当然のことですし、授業を進める上では当然のことと言えます。 昔はクラスに1割くらいはいた「ちゃんとしていない子」の姿が見当たりません。これは「ちゃんとした子」が集まる校風の「私立の小学校」ではなく、地域の雑多な子が通うはずの「公立小学校」の姿です。


☆ちゃんとしていない子はどこへいったのか?

ではちゃんとしていない子がいなくなったのでしょうか? それともちゃんとしていない子は、別の場所へ行ったのでしょうか? 数年間、息子たちを通して小学校を見てきて感じたのは、後者です。


☆子どもの姿

成人して社会人になった大人であれば、ある程度ちゃんとしていて当然という部分はあると思います。まあ表の顔と裏の顔、公も顔と私の顔とでもいいましょうか。社会生活を営むうえで、両方を使いわけることは必要なことと言えます。

大人になると 人それぞれが自分にあった環境を見つけて生きていきますので、その人が属するコミュニティ、その中でちゃんとして生活しているのではないかと思います。                      

しかし公立小学校は、たまたま親が住んでいた場所にあっただけの自分では選んでいないコミュニティです。

子どもは

成長途中であり、

自分とは何かを見つける途中であり、

自分と他人との違いを雑多な人たちに囲まれながら見つけていく途中

です。雑多の中で「自分とはどんな人間か」を見つけていきます。しかしながら、その「雑多」が今はもう公立小学校で見られません。みんな表面的に同じような感じです。「公立小学校」というコミュニティで、いろんな問いの答えは「先生」や「大人」が持っていて、その答えに子どもたちがあわせる。大人が決めた「正解」「標準」「普通」のカテゴリに見合った子の姿が、そこにはありました。


☆公立小学校のいいところがなくなっていた

公立小学校の良いところは、その「雑多」な人の集まりだったと思います。(だったと書いたのは、今はそうではないからです)人が「自分」を理解するうえでは、どうしても自分とはタイプが違う人たちに囲まれたほうが学びが多いですし、たくましく育つのだと思います。(個人的な見解です)


☆「いじめ」や「からかい」がおきやすい

均質化された中では、大人の要求にそぐわないような個性的な子は目立ちます。みんなと同じようにできない子、みんなと同じようにしない子も目立ちます。大人の要求に応えられない子も目立ちます。 大人の要求に応えてサバイバルする子にとって、目立つ子はうざい対象になるでしょう。足をひっぱらないでくれ。そんな変なことはしないでくれ。空気をよんでくれ。よく、そうやって はみでていられるな。とか思いながら、必死で頑張って生きているのでしょう。

大人も「インクルーシブ」とか「個性」とか言いながら、表面的にはいい子でいてくれることを望む。効率が悪くなるようなことは起きてほしくない。

成長途中の子どもたちは、自分が抑えている自分の中の「雑多」を目の前で出されると ザワザワするでしょう。自分はこんなに我慢しているのに。こいつは我慢しない。小学生であれば、まだ成人ほどは自制心はありません。子どもの「雑多」を無視した環境では、「からかい」も「いじめ」もなくならないでしょう。大人の責任です。子どもたちは、大人が決めた世界の中で必死に生きているのです。大人の都合に子どもたちがあわせているのです。


☆我が子にあった「教育」

ある意味「個性」を抑圧することがよしとされる環境で、学ぶことをどうするかを考えないといけないなと考えるようになりました。つまり、我が子の「教育の場」の選択をしないといけないということです。

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