さっき、子供を産んできた
今さっき、子供を産んできた。
ものすごく軽いノリで書いてみたが(笑)帝王切開での出産だったので、普通の手術同様、麻酔をしてお腹を切ったんである。切りたての縫いたてほやほやなんである。後陣痛というものをご存じだろうか?陣痛は、生む前だけにあらず。生んだ後もやってくるのである(名言風、ドヤ)自然分娩であろうが帝王切開であろうが、子宮がもとの大きさに縮むときにこの痛さがやって来るようである。
いまその後陣痛でなかなか寝ることが出来ない。波があるためちょっとずつ出産手記をしたためる。これから帝王切開でのお産を控えているひとやそのご主人、ご家族なんかに向けて書いてみようと思う。もちろんご興味のあるかた全員にどうぞ。
今回、その入院直前まで、妊娠・出産の実感が沸かずそのまま前日入院したが手持ちぶさたで、携帯(スマホ)をいじって読み物を漁る始末。『入院ってめちゃくちゃひまじゃね?』とこれから過ごす10日ほどを思って途方にくれたりした。産まれてからどんだけ忙しくなるか?という想像をしてみたりもした。思い出してみたりもした。ちなみにわたしは今回の出産が2回目である。
いま思えばこれらはわたしなりの恐怖への現実逃避だったのかもしれない。帝王切開といえば、病院で手術日が決まっており組まれたスケジュールがきちんとあるので、わたしのような個人事業主は産休などというものもとらずに過ごすこともできてしまった。※結果としては、めちゃくちゃよかったとは思う。計画出産万才\(^^)/
なぜなら昨年末に協会を立ち上げたのもあって、協会のメンバーのためにお客さんのために、わたしの穴を埋める作業に直前まで費やすことができた。会社員であってもおそらく産休ギリギリまで自分の穴埋めというのをやるに違いない。
そんなこんなで入院日は、荷物を整理して胎児の心音チェックや剃毛などをし(///)有り余る時間を使って瞑想でもしようかと思ったが、なんだかボーッとしてしまいますます状況を現実的に捉えられず、ふわふわと夢の中みたいであった。
そして出産当日。手術室へ入ったとたん、普段妊婦検診などの外来で見かけない手術専用のスタッフというか先生たちにビビり(なんか現場の先生たちって目付きが違う。もちろん、チョー優しいが)ちょっと怖くなってきてしまっていた。そしていざ、麻酔というときにわたしの中の『恐怖』と対面するのである!!
テ、テレビで見たあれだーと映像が甦る。ブルーのシートに丸く穴が開いており、それを被せ広く消毒をした背中を丸めて横向きに縮こまる。そこにおそらくぶっとい注射をしたんである。(もちろん全く見えていないため脳内映像)
きっと陣痛よりはいたくないだろうけど、麻酔注射は痛かった。うん痛いよ、痛かった。痛いのやだよ。そして工程があるようで一回では終わらない。えーっ、まだ?という気持ちにもなり、この状況がなんだかわたしをナーバスにしたのである。
こんな恐怖にたった独りなんて恐いよ。普段、憎たらしく思うこともある主人が恋しくなった。パパ、側に居て欲しい。とても恐い、恐いよ!
あっ、でもお腹の赤ちゃんも一緒だった!!独りじゃないよ、そう思ってはみたが、ワタクシ直前まで妊婦の実感もなく走り回りお腹を張らせたり深夜までパソコン仕事をしては『あっ、そうだお腹に赤ちゃんいるんだった』と思うことがしばしばであった。ごめん、もうこんなときだけ【いまさら】なんである。
そしてこの子が妊娠5ヶ月のときは、上の子を連れて別居をして夫婦問題に向き合うことになった。(実際書くとまた長くなってしまうけど)ふと、当時のことを思いだすのである。(死ぬ前の走馬灯のように)
このときに向き合ったのは夫婦問題でもあり、私自身の人生についてであり、上の子にもつきあわせて本当に申し訳なかった。
そして、いつも離婚まで至らないのは本当のところのこのすべての問題が私と父親との関係性(の縮図)であると、気づくからである。これは一言で語ることは出来ない。いつもわたしが答えを見いだす前には躁鬱のような浮き沈みがある傾向がある。とくに妊娠中は不安定になると聞くからまったくのステレオタイプでマタニティブルーだったのかもしれない。
色々と廻りに迷惑をかけることがわかっていながらも、ふと私がいなくなることを想像してみたりもした。割りと本気で。これは何となく、ではなく父親にも生き方を理解されない自分、愛情を注がれなかった自分、結局なんのために生きてきたんだろう、これからも生きていくのだろうと。そんなときに、もしかしたら一緒に命を落としてくれるためにこの子はわたしのお腹に授かったのかもしれない。都合のいいように考えてみたりもした。
そんなことをこの麻酔注射の恐怖の最中、ふと思い出していたのである。あのときほんとうに一緒に命を落とさなかったのは、本当はこの子がそんなために産まれるのではないと分かっていたからだ。私に人生の気付きのためのきっかけを与えてくれ、これからもっとなにかたくさんのことを教えてくれるためにわたしのところに授かってくれたのだろうと。
ふと気づくと涙が出ていた。困難に立ち向かう恐怖と、この子を生かすことが出来たという安堵。まだ産んでないのに。そして、いつも検診でお世話になっていた助産婦さんが手を握ってくれていた。涙で濡れた頬を医療用の何かで優しく拭ってくれていた。
あぁ、崇高な仕事だなと思った。もちろん、仕事は全部崇高であるとは思う。そのなかでも人の生死に関わる仕事というのは特別だなと。生死とは、極限に向かい合うことだ。それを支えているのだと。
わたしもこの子を授かることで極限に向かい合った。その後ありがたいことに、いまのところなんの問題もなく産まれてきてくれたんである。もう、うぶ声を聞く前から感動でグシャグシャになってしまった。
局部麻酔の意識がもうろうとするなか、『鼻、かんでいいっすか?』と私がいうと先生方がほほえましく笑った。
これからもちろんわたしも、この子も、上の子も、たくさんの極限に向かい合うことがあるだろう、それでも生きていく。そのときは、たまに笑いにかえながら明るく生きていこう。そんな風に思うのである。
ふじなわまどか
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