【読書日記】『どもる体』(伊藤亜紗著)
本を読むごとに、どんどん、なるほどこれは仕方がないなと思ってきている。
わたしができないと思ってきた数々のことって、仕様が違うからできないんであって、努力は足りないのかもしれないが、しかし努力すりゃ解決するってもんじゃないな、さては。
わたしはアヒルなのに、頑張って普通の白鳥になろうとしていたし、わたしはトマトなのに、なぜ他のイチゴのようにショートケーキとうまくやれないのだろうと思っていた。のではないか。
白鳥の社会ではうまくやっていけないのはアヒルだからなのであれば、アヒルができることをやればよいのでは、アヒルにはアヒルの役割があるのだ、という境地にじわじわ近づいてきているのは、無意識にそんな本ばっか求めて読んでいるからなのかしら。もしかしてこれが確証バイアスてやつかしら。本が、ありのままの姿見せるのよって言ってる。ありのままのわたしになるの。なー!にー!もー!こーわーくー!なー!いー!かぜよぉふ〜け〜すこしもこわくない、ことはない。ないでしょ、そりゃ。
いや、ほんとは。
アヒルのチカラ活用しないのもったいないですよって正直思ってる。ふつうの白鳥が見えないもの見えてるし、ふつうの白鳥ができないことできっからね。だいたいわたし、アヒルの気持ちわかっかんね。ただ、ふつうの白鳥ができることできない。もうぜんぜんできない。頑張ればできるけどすごい頑張んないとできない。普通の白鳥ができることできない奴チームに置いとくのってめちゃコスト高いよね、わかります。あとアヒルのことバカにしないと保てないものあるよね、わかります。
伊藤亜紗著『どもる体』(2018.6 医学書院)はそんなわたしのアヒル疑惑をまたぐんと加速させてくれた一冊でございます。
「どもる」のは、そもそも自動制御している身体活動のちょっとしたエラーなのだけど、社会の中でこのエラーが出ることを恐れて言葉がでなくなったり、無意識に違うことばに言い換えたりすることで症状は展開していく。声を発する身体運動の仕組みから、言い換えに至るまでを、どもるときどもらないときの状況を、当事者へのインタビューを絡めながら綴った本。
わたしは「どもる」に匹敵するようなエラーを隠そうとしているのだろうか?と思うくらい、そうそうそうそうそうなんです、え、同じ感覚のひといるんだ!え、あなたわたしですか!わたしなんですか!あれ、むしろこれわたしでは?わたしこれ答えたっけな?が満載の本。
だいたい、エラーってなんなんだ。
エラーがデフォルトならば、それはもはやエラーじゃないのに。エラーじゃないものは隠す必要も恥じる必要もないのだ。でもこの社会は、たくさんの白鳥と少しのアヒルでできている。だからエラーにみえるだけだ。ただ、それだけのこと。読後、偶然グレイテスト・ショーマンを見て、レティのセリフにぐっときてしまった。
白鳥はアヒルをうまく利用すればよい。だってそれは、お互いさまなんだもん。だけど、売り込んでいくってのはできないのよねえやっぱり。ここではエラーなんだもの。