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『正義』の解釈

「でも多分、事実なんてない。出来事にはそれぞれの解釈があるだけだ。」

『流浪の月』(著:凪良ゆう)という小説にこのような一節が出てくる。

ある出来事があったとして、私たちはそれをニュースや新聞、SNSなんかで認識するだけで、果たしてそれが真実なのか否かを知ることはできない。私たちは、メディアから与えられる情報や、ネットに上がる情報など、断片的な出来事の記載をつなぎ合わせ、自分なりの解釈のもと、ある事実を創り出しているということが往々にして存在する。

『流浪の月』においても、ある誘拐事件の被害者と加害者が、真実と異なる解釈をする第三者により、理解されず、否定され、レッテルを貼られ続ける。当然と言えば当然で、真実を知らない第三者にとって、加害者は悪で、罵倒され揶揄される対象であり、被害者は同情と好奇の対象だろう。そして、ほぼ全ての場合において、私たちは加害者でもなければ被害者でもない。私たちは、真実を知らないまま糾弾し、同情し、レッテルを貼る第三者側の人間だ。

もちろん、私たちには思想の自由(憲法19条)があり、表現の自由(同法21条1項)がある。人に優しくできることは美徳であり、加害者には罪を犯した限りで非難されるべき責任がある。刑事事件についての情報を発信することやそれについて自分の意見を述べること、議論をすることは公共の利益にかなうものだろう。

それと同時に加害者も被害者も、個人として尊重されるべき権利があり、自己の幸福を追求するための権利(同法13条)がある。私たちが自分の解釈に従い(その多くの場合において私たちは背景事情を知らない)、当事者達に加害者・被害者というレッテルを貼り、時には事件が終わった後何年も経過してから、その事件を理由に社会的批判の的にすることがある。ネット上に記録が残ってしまえば、検索が容易であり、個人の名誉や信頼に直接影響が出るような情報を不特定多数の人間が閲覧できる。

近年では、数年前の犯罪事件について有罪判決を受けた者が、ネット上で自己の犯罪事件を検索される状況にあり、よって新しく形成した社会生活上の平穏が害されるとしてURL等の情報を削除することを求めた事件において、プライバシー権の侵害を理由に、インターネット上の情報削除請求が認められ得るとの判決(最高裁平成29年1月31日決定)が登場した。下級審判決においても名誉毀損等による損害賠償額・慰謝料額について、100万円程度を上限として、軽く評価してきた過去の「裁判例の慰謝料額に拘束されたり、これとの均衡に拘ることは、必ずしも正義と公平の理念に適うものとはいえない。」(東京高裁平成13年7月5日判決)としてより高額の賠償額・慰謝料額を認めるものが出てきている。近年では個人の人格権に対する重要性の認識やその社会的、経済的価値に対する認識が高くなっていることから、プライバシー権や名誉権等の人格権の保護を図ることが必要となっている。また前者の事件においては、犯罪者が刑罰を受けた後、社会復帰をするため、または社会生活上の平穏を保つために諸外国で「忘れられる権利」として認められている権利を日本でも認められるのかということが注目されたものでもある。

ところで、『流浪の月』だけでなく、例えば『万引き家族』(監督:是枝裕和)や『パラサイト 半地下の家族』(監督:ポン・ジュノ)などでは、万引きや誘拐、不法侵入や窃盗などの犯罪を犯している人々をメインに取り上げ、私たちに犯罪者といわれる人々の背景事情を見せている。どちらの映画も、終盤のシーンでマスコミが登場人物が起こした事件を報道するシーンが流されるが、これは、私たちが通常はある出来事についての情報をニュースの報道やネットから取得する立場であり、その裏には複雑な事情が存在していることを知らず、私たちはある出来事の表層を掬った情報のみを取得しているに過ぎないということを暗に伝えようとしているのではないかと思われる。そして、恐らく、これらの映画を見た人々は、映画に出てくる登場人物が犯罪者であっても否定し、糾弾することはないだろうし、あったとしてもそこには一定の理解が存在しているはずだ。もちろん、上記の映画がこのようなことをメインテーマとしているわけではないだろうし、もしかしたら全くそのような目的はないかもしれない。これは、あくまで私の解釈によるものだ。

SNS上での人間関係の形成が当たり前となってきた現代において、顔の見えない相手方に対して自分の意見を発信することの心理的ハードルはずいぶんと下がってきている。特に犯罪者や加害者に対しては、犯罪者・加害者というレッテルがあるが故に、自身の行動を正当化し、攻撃的な言動を行うことが容易になってしまっている。

しかし、ある出来事、ある事件において、その背景にどのような事情が存在するのか、なぜ犯罪者・加害者とされる者らがそのような行動をしたのか、それは絶対的に悪といえるものなのか、そういった事情を知った人は、ただ否定し、ただ糾弾するなんてことはできないだろうと私は考える。

以上、つらつらと書いてきたものの、結論として、加害者だから、被害者だから、犯罪者だから、最近では自粛要請に従わないことも含まれるだろうが、そのようなレッテルを貼りつけ、当事者がどんな人なのか、その事件、出来事にどんな背景事情があるのかを理解しないまま、否定し、糾弾し、追い詰めるということは果たして正しいといえるのだろうか。第三者でしかない私たちが、事件の当事者を無責任に批判することは正しいのだろうか。自分の行動が果たして正義といえるのかを考えなくてはならない状況に私たちは置かれている。

SNSの発展により、自分と関わりあいのないところで発生する、学校や職場でのいじめやパワハラ、家庭での虐待やDV等様々な出来事の情報に触れることが当たり前になった。それらをただ否定し、攻撃することは簡単だ。なぜなら、そこには自分の行動を一見正当なものとできる正義があるから。しかし、物事というのはそう単純なものではないだろう。だからこそ、理性的な人間となるために、自己の行動が真に正しいものといえるのか否かを判断する能力を私たちは養う必要があり、自己の行動を正当化する正義の解釈が求められているのではないかと、私はそう考える。

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