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「水与水神」|第三章 華夏之水|第一節「伊洛泱泱」

第一節「伊洛泱泱」

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ここでは、河図洛書の伝承について。

河図洛書

「河図洛書(かとらくしょ)」とは、<周易>と<尚書>の洪範九疇(こうはんきゅうちゅう ※禹が天帝から授けられた天地の大法)の根幹であり、中国古代の讖緯学(予言)や数理学のはじまりとされるものである。伏羲の世に、黄河から現れた龍馬に書かれた文字(後の八卦)をいわゆる「河図」という。また、禹の治水の折、洛水から現れた亀の背に九数字が書かれており、禹は九類を成し、九州を定めた。この神亀の背に書かれた文字のようなものを「洛書」という。

黄河から出現した「図」、洛水から出現した「書」は、天命を受けた聖人、王者の象徴で、専制政治における理想をあつめたようなもの、とみることもできる。生存列強の乱世なって、孔子は、乱世をして「子曰 鳳鳥不至 河不出圖 吾已矣夫(<論語・子罕>)」と嘆いた。らしい。鳳凰来ないし、河から本が出てこないじゃん! と。

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古代中国の中原文化は、黄河に成立したものとされる。が、実際には、伊洛渭汭等、さまざまな黄河の支流域にうまれたものである。黄河自体は常に氾濫し、人が暮らしまちをつくるには不向きであり、一方、支流は水流も穏やかで、農業、建築が発展し、例えば、伊洛を中心に姒姓族が夏王朝を建てた。渭水、姜水は姫姓族は周、鄭州と安陽は、子姓族を中心に商を興した。中国古代中原は黄河支流諸水で発展、形成された文化と王朝によるもので、黄河文明とは異なった、多元的な様相を呈し、黄河両岸の諸水域では、古代中国民族と王朝とがうまれたとされる。

<史記・封禅書>に「昔三代之君、皆在河洛之間」、<国語・周語>に「昔伊洛竭而夏亡」とあるように、伊水落水と古代中国王朝の興亡は密接な関係にあった。河を治め、英雄が北方騎馬民族を駆逐し、中原を祖国として取り戻すことは悲願でもあった。

<水経注>には、黄帝が黄河を巡り、洛水を過ぎ、祭壇を整えた際に、黄河から龍図、洛水から亀書を受け取った。堯帝は、河をたどると黄河から光が出、白雲が起き、風が回り、書が現れ、赤文字で帝王興亡の数等が記されていた。亀の背に負われた書に文字が現れ、堯は舜に禅譲した。舜は堯にならい祀り、書を沈めると、赤い光が起き、書を背負う玄亀が舜にそれを授け、舜は禹に禅譲した。

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また堯・舜・禹の禅譲が天命により執り行われたことの他に、黄帝の時代、倉頡(=蒼頡、そうけつ)は皇帝の南巡に同行し、陽虚の山に登り洛水を望むと、霊亀が丹書青文を授け、倉頡はそれにより文字をつくったとされる。中国文字の起源は、神聖な天意であり、倉頡が文字をつくったとき、天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた、と伝わる。天から粟の降ることは、吉祥であるが、鬼が夜に泣、とは何を象徴するのだろうか。文字を持ったあと、人々が無知蒙昧であり続けることは容易ではない(人が無知で抑制出来る存在ではなくなる)、ということであろうか。あるいは、文字で記すことにより、神々や精霊の天の神秘が明らかにされてしまうから、であろうか。

洛水は陝西、慶陽を源とし、雒水とも書かれ、東から流れて洛陽の黄河に流れ込む。周代王都、後漢、西晋、後魏、随、五代では、いずれも洛陽に都が置かれた。

<周書>では、周公が政を行うのに、大邑城(城壁で取り囲んだまち)をつくったとある。南には洛水、北は山に取り囲まれ、世界で最も重要な都市であった。洛水の東には洛陽県の南、伊水は西から来て洛水に入り、周公は洛陽に王都を建てた。洛陽の地は八方に広く、周洛はその中央にあり、洛陽は世界の中心とされ、中国と呼ばれた。周王朝時代には成都、いにしえには洛陽とも呼ばれた。漢高祖は洛陽を首都として欲したが、果たせぬまま亡くなり、漢光武帝は洛陽に住まった。漢代火徳には水が忌まれ、「洛」字の水偏(さんずい)を用いぬ「雒陽」に改名された。

洛水は東から山間に入り、東の流れは伊水と合流する。黄帝の時代、三日間天に霧がかかり、黄帝が洛水に大魚を見、五頭の動物を生贄に捧げると、七日七夜大雨が降り、魚が図書を運んできたとあり、これが<河図>の視萌篇である。洛水は東北から陸渾県南を通り、陸渾県東には禅渚があって、これが<山海経>にある「南望禅渚、禹父之所化」の場所である。神話には、(禹の父)鯀(こん)が息壌(すごい土)を盗み、治水に失敗したことで帝は祝融に命じて殺させ、鯀が黄龍になって禅渚の羽淵へもぐりこみ、死んで三年経ってもその亡骸が腐らず、帝が刀で切り裂くと、腹から禹が誕生したという話がある。このほかにも、殷商の大巫伊尹は、この澤でうまれたとされ、大洪水に巻き込まれた母が桑の大木となり、その幹から伊尹が生まれたという。伊尹は、伊水の桑にうまれたことから、伊水の姓を持つとされる。また、伊水と洛水の合流地点には、一種の怪魚が現れる。<広志>によると「鯢魚(オオサンショウウオ)の声は子どものようで、足は4本、形は鱧で、牛の治療が出来、伊水に出る」とるが、司馬遷の人魚は鮎に似た魚に4本足の鯢魚で、それは、今日みる娃娃魚(チュウゴクオオサンショウウオ)であろう。

湯王は伊水を得て、伊水の国家を治めた。商の湯が夏を討伐する前に、洛水において、玉を沈めて洛水の神を祀ると、洛水に2匹の黄色い魚が躍り出で、黒鳥が舞い降り、また黒色の亀の背に赤い文字が現れると、夏王朝の桀にはなすすべがなくなり、湯王がそれを討った。ここに出現した黄魚というのは、夏族の祖神のトーテムで、国鳥とは、天命を受けた鳥という商族のトーテムであった。この神話は、玄鳥が黄魚に取って代わる、殷商が夏に代わって興るという天命には逆らえない、というしるしであり、河図洛書の故事のひとつであるといえよう。

湯王が夏を尅したのち、7年干ばつが続き、洛河が枯れ、湯王は桑林にて自らの身を以て犠牲とし、爪や髪を切り上帝に捧げ祈ったところ、天から雨が降ってきたとされる(<捜神記>)。

周武王は商を倒し、周公が儀式や音楽をつくり、孔子は洛水に座し、漢の昭霊皇后は劉季をうみ、光武中興(漢王朝の滅亡と光武帝劉秀による復興)……それから、唐代は武則天の時代まで、数千年にわたり、洛水には書を負う神亀が現れ、朱雀が瑞祥をもたらし続けてきた。中国歴代の政権、民族の宿命はそれらに左右されるといわれてきたが(実際は洛水の氾濫)、唐代以降神亀の出現は減り、人々は、次第に河図洛書の予言を信じなくなってしまった。

(「水与水神」p52‐55)

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