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ある春の日の。

4月が終わった。
桜が散ると、わたしは年をひとつとる。

春のおわりを束ねたらきっとこんなふう

新年を迎えたあたりから、春が来れば誕生日だ、と思い暮らしているものだから、2月の前には年が上がったような気分になって、年齢を書く際によく間違えてしまう。適当な時期に勝手にひとつ足してしまって、実際に誕生日を迎える日には、何だかほっとしたような、ぽっかりしたような、妙な気持になる。ぽっかりにはきっと、新たに始まるこの1年の楽しいことを詰め込んでいくのだろうと思いながら、今年も、上等なケーキを食べて、上等なパフェを食べたりなどした。美味しいものを食べるのにいちいち理由は要らないのだけれど、素敵な理由をつけさえれば、美味しいものが、さらにおいしくなるような気がして、だからわたしはすぐに理由を探して美味しいものに手を伸ばす。つつがなくひとつ繰り上がったことを祝し、パフェの日には、大好きな友人からうつくしい花束を受け取って、特別感も吹き上がった。

芍薬と土耳古桔梗と、名前を知っていても知らなくても、花は花としてただうつくしく香しい。両手いっぱいに、もくもくと湧き出るような桃色を眺め、華やかなテーブルにうつつを抜かし、この日のわたしたちは、今のわたしたちのことをたくさん語らった。過渡期にある九州男子の生態、アーティストの気質、さまざまなチャレンジ。恋愛の話は横に置いて、そういえば、健康の話もしなかった(40を過ぎると、老化と老後のことが話題にのぼるのが常である)。豪奢な飴細工を割り、威風堂々のさくらんぼをつまんで、濃厚な珈琲を大事にのんで、四半世紀前とかわらず、たくさん笑った。心細さはいたわり合って、うれしいことを讃え合った。あの時と違うのは、ここは東京で、わたしたちがずいぶん大人になってしまったこと、それから、わたしの母がもう死んでしまって久しいこと。母がもし元気だったなら、わたしはこの花をきっと真っ先にみせ、口にしたパフェのすばらしさと今日の愉快を延々語って聞かせたことだろうなどとおもいながら、わたしはロビーで焼菓子を二つ買い、家に待つおじさんにはどこまで話そうかと考え、帰路につく山手線でまた近々の約束を交わした。

春のおしまいを束ねたようなこの

すこし先に、心おどる待ち合わせを持つことのよろこびにひたり、花を花瓶にうつす。窓の外には、緑が深い。

これは、すこぶる美味しかったパフェ

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