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なりもの|BFC3落選作

なりもの

大カアサマがおかくれになった。

かたくなるまえに唇をひらかせ、真珠の玉を一粒入れた。あたらしい藍色の服に着せ替え、顔は酒で拭き清めてから、紅をさした。嫁入り前であれば白の服、嫁入り後の、しかし、年寄りではない者は赤色をつける。男は右の手を上に、女は左の手を上に重ねた姿で北を枕に安置する。男には右手で刀を振りやすく、女には左手で羊の毛糸をひきやすくするためというが、大カアサマは羊を捌くのに長けていたから、右を上にして、刀を握らせた。勝手なことをしてはならん、とトサマが血相を変えるが、大カアサマならよろこんでくれるにちがいない。

露に菊花のたわむ夕暮れ、客間の中央に、まだあたたかい羊と並んで横たわる大カアサマは、すっかり萎れていた。しぼんだあたまから生えるおさげの髪にカアサマが指を入れた。とおい昔、ムラでいちばんうつくしく豊かだったはずの黒髪も、黄味がかった白の、ほとんど枯れた草葉のようだった。何十年ものあいだ、三つに編みこまれていた髪は、結わえの紐をはずしたところで、枯草のまま波打っていた。死出の旅には、ほぐしてまとめ直すのが倣いである。カアサマは先端に括られた紅色の紐を外し広げるようとするが、毛髪は頑固に、編みこまれたちぢれのかたちを保とうとした。
「さすが、大カアサマの」
飴色の櫛をアネサが握り、ちぢれにさした。

そのまま梳かそうとするとからがり、枯草の髪は、しりぎしりぎしと音を立て、あ、通らない、とアネサが手を止めた。無理に引くと折れてしまう、とカアサマが言った。蜻蛉模様の大事な櫛は、大カアサマのその前の前の親から引き継いだ。代わるものはあるが、変えてはならないもののひとつであった。ゆっくり引かねば、とアネサが櫛を持ち直した。しりぎ、と鳴って、のたうつ髪はすこしだけまっすぐになるが、全部は行かない。あぶらをつければよいとコアネが言って、椿のそれをうすく取った。ほの暗い部屋の中に、籠った香りが大カアサマの匂いと合わさった。

「蝋燭の取り換えは要らぬか」
扉の向こうで声を張るトサマに、「まだあるからの」とカアサマが答えた。
額のきわから頭頂部にかけて、遠慮がちに櫛を引けば、髪は枕をはみ出し、敷布を越えてのびていく。のびきったものを今度は一つに括り、頭の天辺に丸めて納める。

櫛が、女たちの特別であるとは、大カアサマが教えた。ごろりと二本、立派にさがる編み髪の、腰の下まであることは、大カアサマにもカアサマにもアネサにも自慢であって、コアネには耳の下に切りそろえ、男たちと同じかたちのその髪を気に入っていた。コアネの髪を、オカサマもアネサも、どうしたって良くは思わない。長くして、編んでおかなければと咎め、しきりにあぶらを塗ろうとするが、今、目の前に死んでいる大カアサマだけは、時折、ぱつりの切り口を愛しく眺め、コアネに似合ってきれいだと褒めた。西のムラでは男も女もそうでないものも皆好きにしている、と配達人が言い、整えてくれた。

声をあげずにしんだ羊は、トサマとニサマが剝いた。羊は、大カアサマが息を引きとる前に、川向うから譲ってもらった若い雄だった。もう発つ、との見立てを受けた大カアサマが、七日もひと月もふた月も保たれ、枕元につながれた羊の方が、死にゆくひとの代わりにじくじく弱っていって、もしかすると、これで大カアサマがしゃんとなるではないかと、カアサマは目を見開いてはいたけれど、その命は、芽吹きの季節を待たずに絶えた。懐いていたイヌタロは高く吼え、カアサマはうなだれた。

魂の抜けた大カアサマの右隣りには、死なせたばかりの羊が並べられ、ひと晩、そのままに置かれた。冥界へのとりなしは、御守のけものに託される。共にゆくものには、決して刃物をあてず、髪を結わえていた紐で締め、死者に悲鳴をきかせないことは絶対だった。押し込めた声だけが、結い上げ髪の大カアサマを導いてくれる。内なる声が闇に鳴り、くびられた羊が一匹とことこ先をあるいて進む。深く、暗い、光のない道に、その響きだけがしるべとなり、正しい場所を示すとされる。鳥を連れて行くものもあれば、猫や犬を連れるものもあった。うさぎを連れて行ったものは、鳴かないうさぎとはぐれてしまい、地の淵に押し流されてしまったというから、音を出すものを持てと、トサマもカアサマも口を揃えた。では、イヌタロに頼む、と言うニサマをぶんなぐり、わたくしの時には犬も羊も要らぬ、とコアネは、手捻りの鈴を振ってみせた。

「死んだあとには自分で振れまい」
「心を寄せ合う女があるから心配はない」

からりら、と、鮮やかな音をさせ、コアネは得意な顔をした。
コアネが先に魂を飛ばしてしまったらその女が、その女が先に逝けばコアネが鈴を振る、と小指を交わし合っていた。ふたりは毛糸を引かず、土と、火と、刀の扱いに長けていた。

大カアサマを埋めたあとには、黒いとりが来て、そのうえを旋回した。
鳥が来ているときにだけ、家の者たちにも、涙を流すことがゆるされた。鳥が去ると、赤い雪が三日三晩続いて、それから、三十日かけてゆっくり溶けた。やがて、ほんとうの春の来る頃、血の色の花が咲き、雨が降り、一年待って雪がきて、それから三年もすると、ふたたびに、大カアサマがお戻りになる。今度お迎えするときには、きっと、大カアサマの好きなあたまに仕立ててあげよう、とコアネは思って、羊から取り返した紐を取り、縛って川に放り投げた。ぐるぐる巻きにした紐は、川面をすべって水を切り、三段に跳ねた。

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