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中川マルカ「鱗」

BFC4 落選作

きくの海が、白く波打つ。
太陽を照り返すこともなく、月を映すこともない。
灰をたたえた白の海原は、あかりをのみこみ、満ち引きをつづける。ざらりざらの音で。砂浜にも海にも、同じ白が続く。瓦礫の重なる浜辺には、流れついたあまたの樹々が横たわり、散らばり、突き刺さる。海に面した高台は、草木の根ごと白く燃え尽き、ところどころくすぶったまま、細い煙をのぼらせる。落ちた枝木をあつめる人の姿も、今朝はない。打ち上げられ、灰まみれの魚は、木彫りのようにじっと、わたのひきずられることさえ厭わない。浜に、腹を見せる魚の山をとりたちがつつく。するどいくちばしに食い破られたふくらみは、肉も腸も、はみだした端から灰まみれになる。果てまで白い砂浜にせわしなく歩くとりの、喉の奥にだけ灰をまぬがれた色がある。その赤と同じ夕日の、その沈む方角の、岬にみあげる一本松は、鉄塔を背に、白くねじくれて立っている。嬉々として魚をついばむ、くちばしから翼の先まで灰被りであることは、この世のおわりのようでもあって、浜に投げ出された樹々の白さ、海、砂浜のすべてが同色に覆われているさまは、天界の眺めにも似て。
「みなみな、どこへ」
山が爆ぜ、燃える水が地表を焼いた。建物の群は崩れ、天に向かい、競って伸びた柱も塔も、燃える土と化し、大地に沈んだ。傷を抱えた土地にのこされ、マイカの母は、ひとり灰をかいた。その目も唇も、癒えぬ傷口のようだった。うつろなまなざしも、半分ひらかれた幼い口元も。閉じきらぬまま切り口はじくじくと膿み、風に乾くのを待っている。陸に押し上げられ、やがて干からびる海の生き物を、灰の浮く海水ですすぎ、口にしてながらえた。白い魚を、詰まらせ落ちたとりもあった。のどをふさげば死ぬる、とカアサマたちが言っていた。落ちたとりの羽をむしった。攫いに来るはずの四つ足の生き物は来ない。山の近くにいたものは、熱に溶かされ、揮発し、洞に逃げ込んだものは、肺が破裂し、蒸されて、戻らない。打ち消された世界には、たちのぼる匂いもなく、あたりに満ちていたはずの、いのちの気配は削がれていた。山の噴く前から、大雨のたびに川は溢れた。山に連なるしらいとの丘のあたりでは、鉄砲水も出た。太い川は、荒れるとあたりを水浸しにした。流され、泳ぐ犬もあった。溺れる犬もあった。足を滑らせた人は戻らなかった。ふくらんだ川は流れが複雑で、底に向かって引き込む流れにつかまるとたすからない。いたちや猫たちは、こぞって高い木に登った。蛇も這いあがった。土色の陸亀は海へかえり、車や馬や牛は流された。水から逃れるものもあった。時に、熊がそれらを追いかけた。熊は駆けるし泳ぎもした。獣を獲るし魚も捕った。水がひけば、ふたたびゆたかな土が出た。ゆたかな土壌には草木が芽吹き、緑をひらいた。芽が出て枝葉を成し、花がひらいて実が成った。花には虫があつまり、果実にはとりが来た。虫をとる虫もあり、とりを喰うとりもあった。亀はようやく甲羅を干し、流れたけものは魚が食んだ。水は姿を変えた。よい時もあれば、そうでない時もあった。ややもするとおそろしく、しかしまた水の周りに帰って来る。静まった川に向かい、人々は、四つ足の生き物を屠り、花を捧げた。春には梅、秋には菊。白い花びらが川を覆い、百年生きた熊は山の神になった。丘の裾野の大岩を拝み、ちいさいものたちが岩の前で踊る。海に行けば、川にはおられぬ神々が、しもべと共に淵に棲む。冥界の入り口をまもる下々は、時にあらぶり、人を捕った。あたまに蛇を飼うものは、男をかみしだき、女をのんだ。背中に甲羅をもつものは、老いたものを吸い込み、若いものをねじ伏せ、うまれたばかりの子を連れ去り、うまれる前の子を攫っていきもした。
―文身以避蛟龍之害
おそれる人々は鱗を描く。魚人のふりをし、鱗をみせれば、足を削がれるようなことはない。鱗は魔除けのおしるしである。外界からその身をまもるものとして、マイカの母の、その親の、そのまた親の彼たちの、海辺にくらしていた頃から、ときに、人々は手足の生えた魚のふりをした。魚のふりをしていれば、沈みゆくものを引き揚げることも、これからうまれくるものに手を差し伸べることも、ゆるされる。
「昔は、かたい鱗を、もって」
「だんだんと、薄くなって、いまとなれば、むきだしの」
陸に上がった魚人らの、鱗は、やがて、薄く、脆く、かたちを変えた。肌を覆う産毛のようなものとして、赤の或いは黒い痣として、特段の役目をもたず、名残をわずかにとどめた。熊は神になり、幼子は人魚になり、百年のうちに、マイカの母はマイカを生んだ。マイカの母もマイカも、その腿を、背中を、海にした。白く張ったなめらかな肌に、裂けめをつくり、墨を押し込む。かなしみを忘れぬために。おとむらいのたび、波を興した。針を打ち、或いは、刃をおろし、墨を入れた。自ら刃を持ち、己の肌にしるしを刻みなおす。刺した墨が、波をふちどる。己の手の届かぬ場所は、母に託し、娘に託し。銀杏葉を模す三角が、背骨から腰にかけての柔肌を埋める。骨に沿う皮膚には痛点などないと聞いていたが、刃物が食い込めば、痛んだ。痛みは、深ければ深いほど、いつまでものこるほど、マイカにはありがたい。脇や肩付近の皮膚は、骨に近くとも、薄く柔らかだった。大人になりきれず死んだもののあるとき、弔いのままならなかったもののあるとき、共に旅する代わりに。肌の裂ける苛烈な痛み、肉に墨のおかれる鈍く重い痛みは、その一点から全身へと広がった。焼かれた棒で叩かれるより、砂鉄に肌をなぶられるより、耐え難く、熱い。呻いても泣いても、こらえられぬとおもっていても、それでも、時が過ぎれば、痛みは必ずうすれてしまう。水に撫でられているあいだには、特に。肌の下にもぐる墨の、皮膚に透け、その色は蒼く発せられた。ふちをもち、塗りつぶされ、規則正しく居並ぶ三角形が鱗になり、あつまったところからうねりだす。マイカが跳ねれば鱗片はねじれ、合わせさり、ひきつれ、弾ける。立ち上がり、しゃがみ、腰かけ、振り返り、歩き、舞い、転がるたび、足や背に波が寄り、引いていく。引いていく。
                                了

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