聖なる偶像殺し〜ジョーカー2を見て〜
どうもまろーんです。ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを見てきました。数年前に前作を見たときは「なんだかとんでもない映画を見てしまったなぁ」と思ったのですが、いざ海外で続編のリアクションが出始めると「なんか微妙っぽい?」と戦慄したものです。
ところがぎっちょん、見終わってみると「なんて面白いんだ!」と。いやすごいですよこの映画。とんでもなく練られた「封呪の映画」、いや「ジョーカー殺しの映画」ですよ。いやはや、興奮が冷めやりません。そんなわけでこの熱を長文考察にぶつけてみました。いぇい。以下ではちょっと真面目に書いてみたので文のテイストも変わりますがご愛敬で。それじゃ、いくぞ!
(*映画の展開にガンガン触れているのでネタバレが嫌な方はここでブラウザバックをお願いします)
「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」とはどんな映画だったのか。結論から言うと、私はジョーカーという偶像から神格性を奪い、一人の無産の男に戻す解呪のための映画だったと思う。そしてそのカギを握っていたのが「歌」と「謎の女:リー」であったと感じた。以下ではこの二点に注目して考察を進めてゆく。
1.歌う男
ジョーカー、もっと言えばアーサーはそもそもなぜ歌うのか?それはアーサーにとって歌は「初めて獲得した自己表現の手段」だからではないだろうか。
いや、厳密には初めてではなく二番目か。前作にて、アーサーは自らの暴力が社会にハレーションを起こす様を見て、己の実存を再認識した。ただ、そのきっかけとなった二つの事件(メディアによって広く報じられた電車での殺しとテレビの生放送での殺し)はどちらも拳銃によるものだった。つまり、アーサーにとって二つの事件は自分が発したものが想像以上の反響をもたらした経験のでありつつも、指先にわずかな力をこめただけで、それに見合う実感が伴わなかったのではなかろうか。
実感のない暴力での成功体験に対して、歌は自分が発したものに対して小さくとも実感を伴う反応をもたらしてくれたに違いない。意地の悪い看守も、合唱セラピーの名も知れぬ患者も、即座に実感の伴う返事をしてくれる。これはかび臭いアパートで虐げられながら生きてきたアーサーにとって革命的なことだったはず。そしてだからこそ、歌を覚えたアーサーは積極的に自らの感情を歌として発信したのだろう。
アーサーが歌を通じた自己表現を覚えたことは彼の境遇からみて喜ばしいことだったに違いない。だがそれは同時に偶像としてのジョーカーを押しのけ、無産の男:アーサー・フレックが顔を出すことを意味する。リーと出会ってからのアーサーはリーへの熱い想いを歌に込める。しかしそれらは「アーサーの言葉」であって「ジョーカーの言葉」ではない。「悪のカリスマの演説」ではなく、「異性との交流に有頂天になったインセルのイタい自分語り」なのだ。これをもしジョーカー信者が聞いたとしたら、おそらくひどく落胆するのではなかろうか。しかしアーサーのイタい妄想は彼の脳内から徐々に漏れ出し、テレビクルーのインタビューの最中など、衆人環視の場面でもあふれてしまう。おそらくこれを見て多くの信者が気づかされたんじゃないだろうか。「あれっ、こいつただのキモイおっさんじゃん」と。
そして歌は徐々に現実逃避の手段にもなってくる。それが顕著なのが法廷でのシーンだ。イタいポエムを朗読され、昔の同僚の泣き落としに動揺し、カリスマとしての神聖がはがされていっても、妄想の中では自由だ。気に入らない検事や裁判長の頭をカチ割れるし、無罪放免となって信者に迎えられながらリーとダンスもできる。だが現実は違う。そしてだからこそ妄想も激しくなってくる。詰まるところ、アーサーが自己表現を覚えた時点で、カリスマ:ジョーカーにほころびが生じていたのである。みんがまとめているなら悪のカリスマ:ジョーカーであって、イタいインセルのおっさんではないからである。
とにもかくにも、アーサーのペルソナが躍動するほどジョーカーのカリスマ性は削られていった、ジョーカーは歌えば歌うほどカリスマとしての威厳がすたれ、ちんけな一人の人間に成り下がっていったのである。その意味で、本作での歌はジョーカーという人間を超えた概念を個人という器に押し戻す働きをしたのであろう。
2.ジョーカー殺しの刺客:リー
コミックとのつながりが薄いこの映画において、一番色濃くコミックの臭いを漂わせるキャラクター、それがリー。原作でいうところのハーレイクインに当たる彼女だが、ジョーカーとの関係で見たときに最も異色なのは、彼女が「ほぼ全面的に主導権を握っているところ」だろう。そして彼女こそジョーカー殺しの最大の功労者であり、監督が送り込んだ刺客だったのではないだろうか。
ハーレイクインと言えば、もとはジョーカーに魅了され、自ら悪の道に落ちた精神科医という設定。実写デビューしたデビッドエアーの「スーサイド・スクワッド」やアニメ「異世界スーサイド・スクワッド」はこの設定に準拠しており、日本におけるパブリックイメ―ジにもなっている。ただ、近年のコミックではジョーカーとの関係を見直し、有害な男性の支配から抜け出して自分の足で歩く自立した女性として描かれることが多く、映画「バーズ・オブ・プレイ」のような感じに。
しかしジョーカー2のリーはそのどれにも当てはまらない。ジョーカーへの執着は抱えつつも、嘘を織り交ぜながら接近してくる謎の女としてアーサーを振り回す。この「アーサーを振り回す存在」という点については他ならぬアーサーの目を通すと顕著になる。思えば母親以外の女性はほぼ妄想と同等だったアーサーから見て、リーは初めて自分に興味を持ってくれた女性。そんな彼が言い寄られようものなら、聞いていて恥ずかしくなるようなバカ騒ぎを脳内で繰り広げてしまうほどに浮足立ってしまうし、疑念が生じると一気にミュージカルの展開も奪われてしまう。こうした描写だけ見ても、アーサーがリーにどれほど入れ込んでいるか、今作におけるジョーカー×ハーレイクインのパワ―バランスがそれほどハーレイ、リーの側に傾いているかわかるだろう。
しかし、悪のカリスマ:ジョーカーはそんな醜態をさらすのだろうか?煙草をふかしながら横柄なテレビ司会者を射殺し、町が抱える怒りを体現したカリスマが、突然言い寄ってきた謎の女に関係の主導権を奪われるだろうか?ジョーカーなら答えはNOだろう。しかしアーサーなら違う。そしてアーサーがリーに入れ込むほど、悪のカリスマ:ジョーカー仮面が剥がれ落ちてゆく。そんな彼の歌を聴いて観客はこう思うだろう。「ちょっと異性と喋っただけで”俺に気があるのかな?”ってなるイタいやつの歌じゃん」と。
リーもおそらく最初はカリスマとしてのジョーカーにひかれて接近してきたに違いない。そこを見れば今作のリーも原作のハーレイ同様狂気を帯びた人物と考えられる。しかし、彼女がジョーカーに近づくほど、徐々にカリスマの仮面がほころび、さえない男の素顔が漏れ出てくる。わざわざ身分を偽ってアーカムに潜入し、アーサーの元アパートにまで引っ越したリーにとってさぞや興ざめなことだったろう。しかしそれこそ監督がリーを登場させた理由なのでないだろうか。リーは皮肉にもジョーカーを破壊するために送り込まれ、実際に彼を破壊する手柄を立てたのではないだろうか。
3.終わりに
うーん、長文考察とか書いたことないから、これくらいが限界だな。まぁまとめると、ジョーカー2は「如何にしてジョーカーという偶像をぶち壊すか」というテーマで作られた映画だと思う。歌によってアーサーの素の人格を前面に引き摺り出して、カリスマ:ジョーカーのイメージに疑問符をつける。そこにファムファタルことリーを送り込んで、哀れなインセル中年の顔でカリスマの顔を塗りつぶしてしまおう。そしてその様子を通じて観客にかけられたジョーカーの呪いを解いてしまおう。
…という映画だったんじゃないでしょうか。
でもこの映画、地味にすごいですよね。だって続編なのに前作をひっくり返すことに命を懸けてるんだから。作品としての完成度は高いけどそりゃヒットしないって。
そういえばジョーカー2見るよりトランスフォーマー:ONEみようぜ!って言って回る妖怪が海外にいるらしいけど、TF:ONEとジョーカーって裏表なのよ。TF:ONEがカリスマの誕生を描く映画なのに対して、ジョーカー2はカリスマの仮面を剥ぐ話だもん。いろいろ言われててるけど、どっちも見たら解像度高くなるんじゃないでしょうか。知らんけど。
まぁ何はともあれ、ジョーカー2は面白かったので、みんな見てね!