【連載】運命の扉 宿命の旋律 #3
Prelude - 前奏曲 -
この家には、2年前まで父も一緒に住んでいた。
しかしそれは妹、陽菜の父であり、稜央にとっては継父であり、実の父親ではない。
『稜央に新しいお父さんが出来るけど、いい?』
稜央が小学校4年生の時、母の桜子からそう告げられた。桜子は既に妊娠しており、稜央は断る理由がなかった。
稜央は自分の父親の存在を全く知らない。
桜子も父が生きているとも死んでいるとも言わない。
ただ「稜央にはお父さんはいないのよ」と言われ続けて来た。
だからそもそもどんな存在なのかが、よくわからない。
"新しいお父さん" と言われても古い父親も知らないのだから、良いも悪いもない。
何とも思わず、10歳の稜央は黙って頷いていた。
* * *
新しい父親が来てすぐに陽菜が生まれた。
稜央は小学5年生になっていた。
新しい父親は陽菜、つまり自分の娘のことはそこそこかわいがっていたが、稜央には冷たかった。
「お前は俺の子じゃないから」
その冷たさは段々とエスカレートしていき、稜央に暴力を振るうようになった。
桜子が目を離した隙きに叩かれたりした。
背中や腹を蹴られることもあった。
普段服で見えない箇所を狙い、稜央も何も言わないから桜子もなかなか気づけなかった。
いつか陽菜が熱を出し、母が病院へ連れて行っている間、継父が仕事から戻ってきた。
稜央はしまった、と思ったが、遅かった。
当時は自分の部屋がなく、居間にいるしかなかった。
「なんだお前、ひとりか」
稜央は継父を睨んだ。
「なんだよお前その目は」
稜央の頬に張り手が飛んできた。後ろに数歩ふらつくほどの強さで。
継父はそれでスイッチが入ったように稜央の脚を蹴って倒し、背も腹も頭も蹴りたいだけ蹴った。
稜央は手だけは守らないと、と太腿の間に手を挟んで守った。
学校でピアノが弾けなくなっては困る。
そのことだけ頭にあった。
継父は憎しみを込めた声で言った。
「お前、暗くて気持ち悪いんだよ。お前の本当の親父は相当クズ男だぞ。お前、捨てられたんだぞ。お前にはそのクズ男の血が流れてるんだよ。お前がこんな目に合うのは親父のせいだからな。恨むなら親父恨め。
ほら、出て行けよ。男なら一人で生きて行けるだろ?」
執拗に蹴られながら、稜央は何を言われているのかわからなかった。
口の中が血の味でいっぱいだった。頭の中がぐらぐらと揺れている感覚があった。
起き上がろうとすると吐きそうになった。
「部屋が汚れるから吐くな!」
継父は更に蹴り上げ、稜央はうずくまって吐き出した。
「汚すなって言っただろうが!」
稜央はめまいがして立ち上がれない。このままではまた蹴られる。
継父の気配を感じ、稜央は声を振り絞った。
「…るなよ…」
「なにぃ?」
稜央は目だけを継父に向けた。子供とは思えない形相だった。
少し怯んだかのように見えた継父が再び攻撃しようとした時、玄関で物音がした。
継父は "やばいな" と舌打ちする。
桜子が陽菜を連れて病院から戻ってきたのだった。
リビングの光景を見て、桜子は悲鳴を挙げた。
「稜央、喧嘩してきたらしいよ」
継父はあまりにも見え透いた嘘をついた。幼い陽菜を抱いたままの桜子の顔は恐怖と動揺で青ざめていた。
「稜央、どうしてこんなことになったの?」
桜子の腕の中で陽菜が泣き出す。
朦朧としながらも稜央はうるさい、と思った。
稜央は床を張って玄関に向かった。
「稜央、どうしたの? 何処に行こうとしているの!?」
母が背中から抱きしめてきた。それすらも痛くて耐えられなかった。
「病院…稜央、病院行かないと…」
母の声が震えていた。
制止する継父に対し一旦出ていって欲しいと母は懇願したが、なんで俺が、と呆れ返っている。
2人が言い合いをしている間に、稜央は這いつくばって風呂場に閉じこもった。
風呂場の床で身体を丸め、耳を塞いで目を閉じた。
* * * * * * * * * *
結局稜央に対する継父の虐待とわかり、桜子は稜央と陽菜を連れて自分の実家に逃げ込んだ。
そこでは暴力こそなかったものの、桜子の実家の人間たちは稜央を決して温かい目では見てくれなかった。
とりあえずの同情、そしてよそよそしさ。
稜央はその微妙な視線さえ、敏感に感じ取っていた。
この家の人達も、全部自分の敵だと。
桜子は度々陽菜を連れて家を空けた。
おそらく継父と今後どうするかを話し合っているのだろう。
その間も稜央は家にいるのが苦痛で、益々学校の音楽室に籠もった。
遅い時間まで、元担任も付き添った。
「川嶋くん、そろそろ帰らないと。お母さんが心配するわよ」
「心配する人なんかいません」
稜央が虐待にあって、母の実家に一時避難している件は校長と、この元担任にも共有されていた。
元担任は小さくため息をつく。
元担任だって明日の授業の準備をしなければいけないし、家に帰って家族の食事の支度をしなければならない。
「もうお母さんが晩ごはん作って待ってる時間だよ」
稜央は仕方無く席を立つ。
「ごめんね川嶋くん。明日また来てね」
稜央は黙って音楽室を出た。
* * *
稜央が小学校6年の秋の事。
学校から帰ってくると母、桜子が言った。
「稜央、家に戻ろう。もう怖い人はいないから、大丈夫だからね。陽菜と3人で暮らしていくんだよ」
桜子の離婚が成立したのだった。母の実家での暮らしは約1年間に及んだ。
そして桜子の結婚生活はわずか1年半足らずで終わってしまった。
桜子は自分の結婚生活より、稜央のことを絶対に守らなければならなかった。
息子の稜央は桜子にとって…ある種の形見のような存在だったから。
それに父親の存在を明かすことが出来ず自分の都合で生んでしまい、決して恵まれた境遇ではない中でこの世に存在させたことに対する、桜子の絶対的な責任だったからだ。
稜央は居心地の悪い桜子の実家から離れられると思うとホッとした。
* * *
その年のクリスマス。
稜央は桜子からクリスマスプレゼントとして電子ピアノをプレゼントされるが、実はこのプレゼントは桜子の母と兄もお金を出してくれていた。
稜央を妊娠した時の状況は許しがたいものだったが、生まれてくればそれは可愛い孫であった。それも初孫である。
兄は早い段階から桜子の決意を尊重してくれていた。
ただ2人共、頑なに心を閉ざす稜央とどう向き合って良いのか、わからずにいた。
2人共、稜央の気に触るといけないからお金を出したことは言わないでおいて、と桜子に告げた。
ピアノを置くために、以前継父が使っていた部屋を稜央の部屋にした。
母と妹と3人での暮らし。自分の部屋、いつでも触れるピアノ。
ひととき、稜央は穏やかな日々を過ごした。
#4へつづく
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