【連載】運命の扉 宿命の旋律 #53
Élégie - 挽歌 -
どれくらいが経っただろうか。
背後で足音がし、振り向くと険しい表情をした遼太郎が近づいてきていた。
この炎天下らしからぬ青白い顔色だ。
目が合うと一度歩みを止めたが、少しフラつく足取りで稜央の隣に腰を下ろした。
「子供…家に預けてきたのか?」
「いや」
遼太郎は額に汗が滲み青ざめてはいるものの、険しい表情をやや緩め長閑な河原の景色を眺めた。
しかしその表情とは裏腹に、突き刺すように強い口調で言った。
「お前、俺の妻に会って何を言った」
稜央は少し怯む。
「…自分の素性は明かしてない。本当だよ。明かすつもりで行ったけど…結局言えなかったんだ。2人の子供連れて歩いてて、俺が話し出すと最初はめちゃくちゃ驚いた顔してたけど、そのうち "帰って" って、怖い顔して言われたんだ…」
「…それでそのまま引き下がったのか? 肝心なこと言わずに?」
稜央は黙って頷いた。
「やっぱり家族はやめようって思ったんだ。あの人、女の子も連れてたし…母さんと妹が被ってきて…やめようって思ったんだ。だから…」
「だから俺だけどうにかなればいいと思って襲いに来たのか」
「萌花の事もあった。お前、萌花に会って困らせただろ。萌花は以前にも俺のせいで…男に傷つけられてるんだ。だから…外から男が接触するのが許せなくて、それがしかもお前だったから…でも俺、本気で刺そうなんて思ってなかった。ちょっと脅かすつもりだった。あんな小さなナイフじゃ大したことにならないだろうと…でも…」
「現に大したことになってないじゃないか」
「…本当なのか? あの時肩から…」
「だから大したことないんだ。でなければこんな所にいないだろう」
遼太郎はフッと笑い、黙って光る川面を見つめた。
しばらく流れた沈黙を稜央が破った。
「さっき…母さんと何を話してた?」
「…稜央は私の大切な息子だ、と彼女は言っていた」
「…」
遼太郎は嘘を付いた。
本当は桜子から、稜央の父親が自分であることを告げられたのである。
咽びながら謝り続ける桜子の声が遼太郎の耳にこびりついている。
遼太郎は話題を変える。
「お前、どうしてピアノを始めたんだ?」
「たまたま…記憶もないくらい小さい頃から興味を示していて…ってなんで知ってるんだ?」
「お前の彼女が俺に動画のURLを送ってきたんだ。知り合いが弾いていて、ぜひ俺に聴いて欲しいと」
「えっ…萌花が…?」
動画に撮ろうと言い出したのは萌花だった。
初めからこの男に見せるためだったのか。
「…聴いたんだ? 俺の演奏…」
「俺はクラシック音楽には長けてない。どこがどう上手いのかはよくわからない。ただ…」
「ただ?」
「クセも雑味もなくてまるでお手本のような聴きやすさだったな…。感情を一切逆なでしない清々しさというか…俺は素人だから言えた口ではないけど…」
目を合わせずに感想を述べた遼太郎だったが、稜央は感極まりそうになりになった。
素直に嬉しいと感じている自分に驚く。
だからといって急に寄り添う事はできない。
どう距離感を持っていいのかわからなかった。
しかし遼太郎は徐々にその穏やかな表情が虚ろになっていく。
額の汗は暑さのためだと稜央は初めは思っていたが、そうではなかった。
眉間に皺を寄せながら遼太郎は呻くように言った。
「お前は母親の元に帰れ。そして二度と俺の前に現れないで欲しい」
冷たく言い放たれたその言葉に、稜央はショックを受けた。
彼は距離を詰めることを望んでいないのだ。
稜央の脳裏に桜子や萌花の言葉が駆け巡る。
“憎しみ合ったままはやめて”
このまま永遠に、その存在をなかったことに出来るだろうか?
父親を知らなかった17年間と同じように。
稜央は自信がなかった。
憎しみの根底にあった気持ちは、愛されたかった。
今こうしてその存在がはっきりと自分の目の前にいて、俺はこの人に愛されたかった、母のことも愛し続けて欲しかったんだと、自覚した。
愛を受けたい相手として、痛いほど認めてしまったからだ。
「…俺の名前を一度も呼んでくれないまま…?」
「名前で呼ぶつもりはない」
遼太郎は顔を強張らせる。その言葉に稜央は本当に泣きたくなった。
「母親のこと大事にしてくれ。俺が出来なかった分も…。二度と彼女を責めないで欲しい。お前はもうよく知ってるように俺は酷い男だ。彼女を最悪のタイミングで突き放した」
「…」
「俺は自分の子を遺すべきではなかった。俺の家の血を遺すなんて…わかっていたのにどうして…」
遼太郎はそう言った後、苦しそうに首を垂れた。
「お…おい…大丈夫かよ…」
「でも…愛しい女が自分の子供をその身体に宿したと思うと…狂おしくなる…生まれて来るわけにはいかないのに…いや、そもそも俺がこの世に生を受けたことが…フッ…全ての誤りだった…愛するほどに苦しめることしかできない、どうしようもないクズの俺が…」
朦朧とし出した遼太郎を稜央が慌てて支えると、シャツの胸元が湿っていて、自分の手が濡れるほどだった。
大量の汗かと思って手のひらを見ると、それは汗ではなかった。
一昨日、肩を押さえた遼太郎の指の隙間から溢れ出したあの赤を思い出した。
「チェリンが…俺の子を産んだ…チェリンの中に…俺の…」
そう言って遼太郎は稜央の腕の中に崩れ落ちた。
* * *
救急車が到着し遼太郎が担架に載せられると、救急隊員が尋ねた。
「通報いただいた方ですか」
「はい…僕は…息子です…」
「では一緒に乗ってください」
稜央も救急車に乗り込んだ。
一昨日、自分と取っ組み合って出来た傷が開いてしまっているという動揺の一方で、血の気が引いた人の顔はここまで白くなるんだということを頭の片隅で冷静に感じ、意識を失っている姿に酷く打ちのめされ、様々な感情で頭がぐちゃぐちゃになった。
父の身体を支えた腕に、温かさと質感が残っている。
実の父の、生の証の温もり、感触。
それがこんなに尊いものなのか、と稜央は叫び出したくなる。
遼太郎は全ての痛みから逃れるために、ここに来る前に大量に摂取した処方箋の睡眠薬で昏睡状態に陥っていた。
* * *
その頃野島家では、息子を連れて帰ってきたのが遼太郎ではなく、優吾と美羽のカップルだったことに、夏希は激しく動揺した。
2人は部屋の中で何とか夏希をなだめ落ち着かせようとするが、1本の電話がその空気を切り裂いた。
#54へつづく