文化とは抵抗運動である ルビカ・シャー『白い暴動』

音楽界にはびこる差別と闘う

「仕事さえあれば失業手当はいらないし、俺も愛やキスの歌を歌うかも」とクラッシュのジョー・ストラマーが語る70年代イギリス。最悪な経済状況の中、失業、賃金と社会保障の切り下げで人々の生活は逼迫し、誰もが暗く辛い気持ちの中にいた。逃げ場もなければ希望もない、行き止まりの閉鎖感と社会からの疎外感が遍満する中で、怒りや経済苦の起因を求める矛先は「よそ者」である有色人種の移民たちに向かった。右翼は移民による犯罪が増えると主張、政治家のイーノック・パウエルは移民の身柄を拘束し、18世紀の流刑のように「侵略者」である移民を国外に強制的に追い出せと言う。

こういった社会全体の空気は音楽界も例外ではなく、エリック・クラプトンは「黒人を追放しろ」等の差別発言を連発、これをきっかけにして写真家、演劇人でもあったレッド・ソーンダズは「音楽界にはびこる差別と闘いたい」と複数の音楽雑誌に投稿し、賛同した仲間が次々と集まり始める。これがロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)という文化活動によるレイシズムへの反対運動の始まりであった。

SNSも携帯電話もない時代、RARは雑誌を出版し、ポスターで街を埋め尽くし仲間を集め、デモと年間何百ものライブを行う。それは純粋な政治運動とも様相が異なったものであったのがこの映画を観ると良く分かる。デザイン性に富んだ紙面やポスターは、今見ても魅力的で多くの若者たちを惹きつける。音楽という人種の垣根を超えた表現は間違いなくこの運動に反映されており、運動が怒りを発端に始まったものであるにせよ、そこには音楽を媒介としたある種の解放感と楽しさが垣間見れる。何から手をつけていいか分からないキッズたちがスムーズに活動が出来るよう、ライブ用のガイダンスを作り、誰もが自分たちの音楽を奏で、主張が出来るようにした。デモやパレードもそれ自体が生き生きと行われているのが分かるが、その空気は映画全体にも流れている。ともすれば退屈で真面目な教科書に陥ってしまうドキュメンタリー映画が避けて通れない歴史的事実の描写を、雑誌のコラージュのような映像編集とアニメーション的な演出であくまで運動と同じ位クールで「かっこいい」ものにしようと試みている。監督のルビカ・シャーは、映画をとりわけ若者に観てもらいたかったと語っているが、このような演出もそういった所以であろう。

反社会的という表象について

このような形でRARは賛同者を増やし、ラストでは10万人のデモ行進とライブを成功させる所で映画は終わる。人々に自分は一人ではないと感じさせるデモと、一体感と解放感をもたらす音楽には人を動員させる力があった。クラッシュに刺激され、ファシズムに文化的な運動でもって抗議しようとしたのがRARだったが、パンクロックに魅了されたのはRAR側の人間だけではなかった。RARは、音楽を武器にレイシズムと闘うというのがスローガンであったが、同様に音楽を武器や戦略として取ったのはナショナルフロント側も同じであった。若者向けのパンク雑誌を出版し、積極的に若年層へのアピールも行い、それは郊外に住む白人貧困層の若者を惹きつけた。映画ではナショナル・フロント側のインタビューや背景も丁寧に描写されているが、印象的なのはスキンヘッズの攻撃的かつ暴力的な言動以上に、その奥にある寂寥感と鬱屈とした佇まいである。スキンヘッズに絶大な支持を受けたシャム69のジミー・パーシーは、団地出身の若者の港湾労働者になるしかない人生、そして階級固定によって自分の人生を生きられない苦境を語る。こ何故シャム69はスキンヘッズの支持を得ていたのか、それはこのインタビューから分かる通り彼らが自分たちの物語を歌っていたからである。疎外感と絶対に変えられない自分の人生に対して、希望を歌う音楽は若者の心に火をつけた。こういった要素は後のOiパンクにも繋がっていくが、クラッシュにしろシャム69にしろ、パンクロック、そして音楽はこの映画では人々が行動を起こすきっかけになるのである。

この映画に映し出されている70年代において、ロックやパンクは体制や権威に反抗するものであり、加えて親や教師が眉を顰める「反社会的」なものであった。そしてその要素とは、右であれ左であれ青年期のアイデンティティと思想に少なからず影響を与えるものだったのである。それに関しては右も左も変わらない。その一方で、現代においては最早ネガティブな意味合いで受け取られることの方が多いポリティカルコレクトネスによって、反骨精神や体制への反抗というのが、左派よりも右派の方になじみが良くなってきているのは留意すべき事象であるが、この映画のように人種問題に関わらず差別を憎み、多様性を尊重する事と、肌の色や属性によって人間を定め、一定のものについては攻撃し追い出そうとするようなことが現代においてどちらが「反社会的」なのかと言えば、それは言うまでもなく後者である(実際には為政者を含め差別的な思想を持つ人間が数多くいるとしても)。無論、右翼のエスタブリッシュメントへの反抗というのが現代特有のものではない。この映画には出てこないが、同時期にナショナルフロントのメンバーだった人間が中心となり、RARのカウンターとしてロック・アゲインスト・コミュニズム(RAC)を立ち上げ、これは現在も極右の世界の音楽に深く影響を及ぼしている。また、映画の中でもナショナルフロントのデモのコールが「我らは団結した労働者 消して負けない」というものだったことからも分かるが、自分は社会から疎外されている少数派であり、自分たちのやっている事は正しいが、今の世の中では「反社会的」なのであるという概念は労働者の連帯を支えていたのだった。社会からの疎外感、エスタブリッシュメントへの反抗という感情を土台にするアイデンティティポリティクスは左右両方に存在するが、その回路については今一度検討されるべきである。

この映画にセックス・ピストルズがいない意味とは

最後に、クラッシュと並んでイギリスのみならずパンクそのもののアイコンでもあるセックスピストルズはRARの歴史にもこの映画にもほとんど登場しない。冒頭にナチスの鍵十字のTシャツを着たシド・ヴィシャスが1カット映るのみである。その1カットは映画の進行上は何の必然性もないカットである。しかし実際にはそのカットは存在していたし、途轍もなく重要な事を示唆していた。あの1カットだけ映るシド・ヴィシャスは一体何を意味していたのか。勿論シド・ヴィシャスもセックス・ピストルズもネオナチだった訳ではない。彼らがそれを身に着けていたのは、彼らや彼らのファンたちが忌み嫌う種類の人間がそれを嫌がるからである。映画ではスチュアート・ホールも登場していたが、カルチュラル・スタディーズの時代にあくまで表象性の問題として捉えられてきたものが、現在ではそういった表象性が意味の「戯れ」とだけでは捉えきれなくなった。だがそれについてはまたの機会に譲りたい。

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