ノイズ・パワーエレクトロニクスのショック戦略とファシズム


過去との不和 

 先日、MERZBOWのツイッター上での発言を巡り、ちょっとした騒ぎがあった。merzcastという、海外のファンがMERZBOWのアルバムを元にトークをするポッドキャストに対して、MERZBOW本人が抗議の意を示したのだ。現在は削除されてしまっているが、内容としてはメルツバウは2003年以降、ヴィーガンストレートエッジのプロジェクトとして活動しており、以前の思想や活動については否定しているものもあるので、昔のインタビューを持ち出して今も変わらないと勘違いされるのも迷惑である、というものだった。ポッドキャストの放送で、MERZBOW本人からすると今なっては考えが異なる発言が取り上げられたことが発端だったようだが、そのポッドキャストは熱心なファンによって、多分の情熱とノイジシャンへの敬意を持って運営されていたようだった。 

  MERZBOWと言えば、80,90年代においてBDSMやスカムカルチャーについての多数の著作もある研究者としても知られ、こういった要素はMERZBOWのみならずノイズ・ミュージック全体のイメージにすらなっている。シーンの黎明期からノイズのパイオニア的存在として大きな影響を及ぼしながら、2000年代に入ってからは捕鯨反対をテーマにした作品やインタビューの発言等で、アニマルライツに関する思想にシフトしたのは知られていた。しかしそれは初期の活動のイメージからは真逆といっていい程、印象はかけ離れている(実際、14年のインタビューではそれまで自分のやっていたサブカルチャー的なものを全否定するとしている(1))。ただこういった事も日本語で発信される以上、言語の壁がある海外には伝わりづらい事ではあるし、最近はツイッター等のSNSでノイジシャンの思想的な部分が垣間見られることもあるとはいえ、基本的にノイジシャンの考えを知る機会というのは極端に限られている。今回の事はそういった中で起こった齟齬のようだった。以前から思想的な変化はあったにせよ、明確に言語化された思想の転向宣言であり、近年のノイズシーンと外部との不和を象徴しているような出来事であった。ここで特筆すべきなのはきっかけとなる出来事があっての対応だったにしろ、昔からの変化をここ近年になってノイジシャンがはっきりと表明しなければならなくなったのは何故なのかという事である。 


悪趣味、インモラル、極右 ノイズの反社会的な表現とは

 WHITE HOUSEのサディズム、NICOLE12のペドフェリア、GENOCIDE ORGANのエスノセントリズムといった例を挙げるまでもなく、数多くのノイジシャン達、とりわけパワーエレクトロニクスと呼ばれるジャンルにおいて、その初期からの作品にナチズム、連続殺人、SM、ポルノ等、反道徳的、反社会的モチーフが取り入れられてきた。インモラル、悪趣味…何故ノイジシャン達はこういった道徳的・政治的タブーを頻繁に作品に用いてきたのか。 

 それに対して模範的なお決まりの回答としては、反社会的な要素がノイズの根本的な概念と非常に親和性が高いことと関係するとされていた。反社会的表現を用いるのは、人類の汚点として、人々が目を背けたくなるもの、なかったことにしたいもの、存在しているのに存在していないかのように扱いたいものというのがノイズの根本的な概念と接続する。ノイズはそれらを敢えて人々の眼前に表出させることによって衝撃を与えるという「ショック戦略」として用いられてきた、というのがノイズにおいて長らく信じられてきた言説であった。つまりショック戦略とはタブーの侵犯とそれに伴う暴露の期待に他ならない。


 ノイズシーンはその音的性質からある種のセクショナリズムによって閉じたコミュニティとして存在し続け、この「ショック戦略」はその中でのある種の教義のようなものとして機能してきた。ノイズにおいてはジャンル初期から現在まで第一線で活躍しているノイジシャンは数多くいるが、そのノイジシャン達が今でも同様の世界観で作品をリリースし続けることができるのはその教義が新たな若い聴衆をも取り込みながら、伝達と承認によって常に存在し続けているという証左でもある。

 このシーン内での暗黙の了解とは裏腹に、ノイジシャン達が用いるようなモチーフを取り巻く状況は様変わりした。 MERZBOWの件は思想的な変化があったという点で到底同列に語る事は出来ないが、ここ近年のノイズ的な表象の受け取られ方の変化と全く無関係であった訳ではないであろう。本来 、ノイズが今まで数多く使ってきたモチーフとは表面的には非常に差別的で抑圧的なものである。 SNSの普及により、オンライン上において差別的な主張や表現はオフラインよりも増幅された形でより過激で露悪的な形で表れるようになり、世界的に覆うファシズムの空気がトランプ、安倍の強弁さを可能にし、ボリス・ジョンソンを首相にさせ、ギリシャの政権交代を起こさせ、世界中で極右政権の台頭を後押しした。実際の社会の中で暴力、差別、排外主義が吹き荒れる中、コミュニティに閉じ籠ってきたノイズシーンは今、自分たちの作品とそれ以外の世界の規範との対立に直面し、それは最早「ショック戦略」だけでは押し通せないところまで来ている。

 タブーとは固定化されたものでもなければ作品の作者によって決定可能なものでもない。あくまでも社会構造によって決定されるものである。にもかかわらず戦略としてずっとナチや極右的モチーフを使い続けるのは何故なのか。ノイズが不快なものであるという事はもう誰でも知っている(アイドルの曲名ですら『不協和音』である)のに、ジャケットの死体は何故虐待され物のように扱われているのか。このごく当たり前の疑問に誰も答えられない。


漂泊される政治性とサブカル的な消費 

 ノイジシャンの中で作品に右翼的なモチーフ用いるものは数多くいるが、そういったモチーフを使ったからといって実際にそういう思想の持ち主ではないというのが通説であった。ポール・ヘガティはノイズの右翼的事象の参照に関して以下の様に分析している。

「グループの多くは右翼の思想や事象に偏向するが、その主たる理由は、それがタブーだからだ。気をつけなくてはならないことは、それは何か土着のものや、正統的な労働者階級のものとして意味づけられたものではなく、単なる興味にすぎないことである。しかしながら、ボイド・ライスや、少なくともデス・イン・ジューンとデア・ブルートハルシュは明白な民族主義基盤による極右思想まではいかないにせよ、選民思想には近い見解をもっていると思われる。<中略>しかしながら同様に、ファシズム特有の美的好みの復権(美学としてのファシズムではなく)は、偏見をこじらせるものであると同時に興味深いものであるということも議論すべきだろう。ヨーロッパのフォーク・ミュージック、叙事的建築や出来事はすべて、インダストリアルなイメージのために右翼美学から借用される。だがそれは必然的でもないし、本質的にファシズム的でもありえない」(ヘガティ 2014 p.224)

 表象的な戯れを額面通りに受け入れるのはミスリードであり、音楽性と政治性はすべからく区別して考えねばならない、ノイジシャン達が右翼的なモチーフを用いる理由はそれがタブーの侵犯からであり、政治思想に基づくものではない、という言説には相応の説得力があった。例えばライバッハである。彼らの音楽にはファシズム的イメージの参照が見られるが、彼らがファシストであるとは考えられなかった。アルバムジャケット、MV、楽曲、その作品の全てを通して、それは明らかにナチを馬鹿にしているようであった。ライバッハは可笑しさを持ったパロディと遊びの身振りによって愚かさを挑発しているようであり、その強烈な皮肉は明らかにファシズム自体を換骨奪胎させようとしているようであり、その意味でそれは確かに聴衆にとっての「ショック」であり、戦略的なファシズムに対する「攻撃」であった。ライバッハのような音楽の効果がノイズにおいて長らく信じられてきたものであり、我々の期待であったと言える。

 しかし事実は本当にそうだったのだろうか。ライバッハようなケースの方が稀であり、右翼的な事象がポーズではないノイジシャンの方が、常に信じられてきたようにごく一部ではなかったとしたら。我々は長い間、とんでもない間違いを犯してきたのではないか。

 パワーエレクトロニクスの特定の部分で単なるポーズではなく政治的にファシズム的であるにせよ、おそらくそれを聴いている者のほとんどはネオナチでもなければファシストでもない。知らないものの方が多いし、知っていても通例通りの「ショック戦略」として受け取っている。「ノイズの為のノイズではなくコンテンツのあるノイズ」という TESCO(2)周辺のスローガン等とは対照的に、少なくとも日本においては彼らの「コンテンツ」は漂泊されていると言える。パワーエレクトロニクスには明白にファシズムと極右思想があるが、皮肉にもそれが上手く伝わっていない故に聴き手に受け入れられている。いずれにせよ、こういったノイズが国内にで入ってくる時の扱われ方は二パターンしかない。徹底的に政治性が漂白されるか、もしくはそのいかがわしさ(故にサブカル的な尺度で魅力的である)が面白可笑しく取り上げられるかのどちらかである。


表現の自由への渇望、反ポリティカルコレクトネス、反リベラル、ミソジニー —オルタナ右翼に通じるパワーエレクトロニクス 

 そもそもノイズシーンにおける極右思想が少なくともがヘガティが主張するような、DIJ等の「一部」ではない。寧ろ今までパワーエレクトロニクスの一つの局面を支えていたのはこういった思想であったのである。更には現在のオルタナ右翼と言われる現象に通じるものが既にあったと言える。オルタナ右翼の特徴であると言われる、反ポリティカルコレクトネス、マスキュリンな価値観、そして表現の自由への渇望は、パワーエレクトロニクスと驚く程共鳴している。中でも、多くのパワエレアーティストたちが強く主張するのがリベラル的な価値観への反発である。例えば、 Con-Dom ,Richard Ramirez ,Iron Fist Of The Sun 等のハーシュノイズ・パワエレアーティストたちの作品を多数リリースするレーベル、unrest productionは以下のように語っている。

 現在文化圏で支配的な力を持つ左派の教義を拒む事、それはそれを転覆させるというより人生において君自身の道をでっちあげる事だ。例えば、些細でも顕著な革命的行為とは、カフェに集まってカフェラテを飲んでいるような、自分たちが進歩的であるとする自負する左翼が、ユーチューブでSONIC YOUTHを聴いている時に、たまたまXenophobic Ejaculation(3)に出くわしたなら、彼はスープの中に蠅をみつけたかのような反応をするだろう。飼いならされていない何かに触れた事に激怒し、ファシズムとそして現在においてダサいとされるその他の○○主義について嘆くだろう。もちろん、音楽は戦争だ。小規模なゲリラ戦や自分自身の創造的自由のための手段として、それはかなり効果的だ。でもそれは、政府を転覆させたり、世界をより良い方向へ変えたり、その他ナンセンスなものではない。自分にとっては現在の文化的秩序を拒絶することだ。(抄訳)https://heathenharvest.org/2016/10/07/this-is-our-time-an-interview-with-unrest-productions/

 また一方で、オーストラリアのアーティスト Ulex Xane は、自身のパワーエレクトロニクスプロジェクトStreicher(ナチスの政治家であり反ユダヤ新聞「DerStürmer」の発行人、ユリウス・シュトライヒャーから取られている)ついて、それがオイ・ノイズと呼ばれる事に対してノイズそれ自体よりもパワエレ一般に向けられた誤称としながら、以下のように評する。

 俺はユリウス・シュトライヒャーをニュルンベルク裁判を調べていた時に発見した。全ての被告のうちシュトライヒャーはひどい仕打ちを受けているように感じた。彼は疑いようもなく過激派だが、本質的にはインディペンデントな新聞であった「Der Stürmer」の編集者だったために処刑された。<中略>俺はノイズのためのノイズには興味がないし、パワーエレクトロニクスは現代の西洋世界の正当性、「ポリティカル・コレクト」に挑戦すべきであり、神聖にして犯すべからざるものを破壊すべきだと思う。それは必ずしも単により良き世界を構築することについてである必要はなく、現行の秩序への憎しみについてだ。(UlexXane 2016 p37-39 抄訳)

 また、女性ノイジシャン ANTIchildLEAGUEは ネット上の中傷やライブでのカウンター等激しい抗議にあった事に触れながら以下のように述べている。

 左派だと言い張る少数のバカ達が、他人の自由を支配し、私たちの思考警察になることができると考える本物のファシストになっています。もちろんそんなことはできないし、 彼らもそうしないでしょう。彼らのしている事私たちのオーディエンスの安全を脅かす可能性があり、それは二度と容認できない事です。ポリティカルコレクトネスー新しい世界的な疫病―はこれまでよりもはるかに多くの無知を生み出しています。(抄訳)https://heathenharvest.org/2015/07/14/malediction-an-interview-with-gaya-donadio-of-antichildleague/

 彼ら彼女ら共通しているのは支配的な文化秩序に対する怒りであり、それを自身の作品の中で転覆させようとする意志である。重要なのは、彼ら彼女らにとって現代における支配的文化と主流のイデオロギーとはリベラル、もしくは左派的なものであり、それに対して自分たちこそが現代の真のマイノリティであり、反逆者であるという意識である。社会的タブーに触れた時の人々の反応とは、ただ条件反射的に主流のイデオロギーに沿った反応をしているだけであって、自分自身でそれが何たるかを考えた反応ではない。そういった各々がその現実と対峙し、思考せよと主張する。そこには表象的な身振りと音そのものだけでは片づけられない回路が存在する。これらを額面通りに受け取る事はナンセンスであるというのは逆に表現自体をあまりに単純化し過ぎている。

 このような極端な表現に対して、それをあくまで暴露のメタファーとして捉え、政治的な事象と直接的には結び付けない態度が冷静かつ客観的でかつノイズリスナーとしてクレバーな振る舞いであり、「答えがない」という答えに執着したままの今の様な聴き手のシニシズム的パフォーマンスが今後も続くならば、その先にあるのはパターン化された空白のみである。曖昧なものを曖昧なものとしてただ沈黙するだけならば、ノイズは期待するような支配的なイデオロギーに対する暴露・抵抗・挑戦にはならず、ただそれを追認し、聴覚上で再現するだけなのである。


ノイズの解釈は答えがないというのが答えになって皆思考停止に陥る

 ノイズの意味や解釈というのは、聴き手を魅了するテーマでありながら長い間まともな議論がされてこなかった問題である。その理由を考える時、ノイズの意味とはそこに踏み込んだらノイズ自体が崩壊するという絶対的タブーのようなものだったのが原因としてあったように思うが、そういった希薄な議論の中でも共有事項として、ノイズのメッセージ、そしてその意味とは作品それ自体よりも聴き手自身が作品を手がかりに生み出すものという事である、という共通認識が一程度はあった。作品の主権が作者よりも聴き手の方にあるというのは歴史を遡れば音楽的にはミニマム・ミュージックの登場辺りから、もっと言えばバルトを引くまでもなくノイズに限らずポストモダン以降全ての文化的創造物に対して援用される考え方である。よってこの認識にはその意味で世俗的正当性があるが、ノイズの場合は他と違ってこの考えを成り立たせなければならない絶対的理由がある。ノイズとはそもそも意味というのを放棄した概念であり、ノイズそれ自体が意味をもったらそれはもうノイズではないという事である。これはノイズにとって究極のアポリアであって、意味やメッセージが生まれるとしたらそれは聴き手の創造的聴取によってなのであり、ノイズの「メッセージ」「意味」とはノイズそれ自体ではなく聴いた人間が生み出さなければならない。ノイズ作品において意味とは聴き手が作り出すものであるというのは、このような合理性とを担保に成立する。ノイジシャンがノイズ自体の無意味性を打ち出す時、それは異物であり続けようとする意志の表出であり、ノイズをノイズたらしめんとするための一種の戦略である。 

 THE NEW BLOCKADERS(4)に代表されるような、こういった徹底してニヒルスティックに無意味性を強調する流れの一方で、ノイズの意味性を巡る戦略にはこれとは真逆のもう一つの大きな契機があった。前述した通り、TESCO周辺アーティストたちのスローガンの様になっている、「ノイズの為のノイズ」ではなく、「コンテンツのあるノイズ」である。 

 ノイズのZINE『Noise Receptor 』を発行するリチャード・スティーブンソンはこういったコンテンツのあるノイズを取り上げ、政治的・社会的モチーフを作品に使用するノイジシャン達には、聴き手に衝撃を与える為のショック戦略を表層レベルではないもっと深い意味があるのではないかと主張する。それは社会的、政治的な問題に対して主要なメディアの分析は限られており、パワーエレクトロニクスの曖昧でしばしば公平でもある複雑な主題の作品は、メインストリームのメディアの限られた、そしてバイアスのかかった表現に対する反動的位置と考えることはできないか、そしてパワーエレクトロニクスの持つ不条理主義と挑発は、政治的に、宗教的に、文化的に、もしくは社会的に、現状の破壊を追い求める為の手段、もしくは権力、システム、そして制度の偽善を強調する手段になれるのだろうかということである。

現在までのGOの作品で探求されたテーマの多くに関わらず、それらはどんなメッセージであるのかという事を聴き手が確立するための手がかりを与えるような説明やコメント、知識なしに容易に解読できるものはない。提示される主題の複雑さを考えると、おそらくメッセージははっきりできない。むしろ意図とはリスナーに自身の解釈をさせることなのである。(stevenson,2016 181 抄訳)

 このような表現はノイズシーンにおいて典型的かつ模範的な回答と言えるものである。ノイズの極端な表現モチーフとはメインストリームが実現しえない支配的なイデオロギーに対する暴露と挑発、反発であり、それが実際に何を意味しているのか、またはそれを受けて何をするかは聴き手自身が創造するものであり、ここでは「反社会的な事をするための手段として使われている」というノイズの伝統ともいうべきそのシニフィアンのみが永遠と消費され続けているのに対して、それが実際の所何を意味しているのかについては「聴き手自身が解釈するもの」としてほとんど触れられない。パワーエレクトロニクスの右翼的な表現は「ショック戦略」として捉えられ、それ以上の探求には向かわない。しかしそれが表象的な戯れに過ぎないというのこと、そして「ノイズの解釈は聴き手が決定する」という思考停止のエクスキューズをも超えて、彼らが幾多ある社会的なタブーの中から何故それを用いるのかについて、我々は思案すべきだったのではないか。

 かつてノイズの武器だったはずの「ショック戦略」は過去のものになり、今やシーンにおける教義的規範を維持するための保守的装置になっている。それは聴く者が意味や意図を明確にさせないという共犯関係の中にしか成立しえないものである。ここには音という非言語を用いた表現である事も深く関係している。今でもノイズ、パワーエレクトロニクスのファシズム的要素は、若手ノイジシャン達の表現へそれが音そのものとしてであれ、コンテンツを含んだものであれ、波蝕し暗い影を落としている。これまで述べてきたような理由でFilth and violenceやunrestからリリースされる作品が現状の打破になる未来は永劫来ないだろう。我々は40年前に打ち立てられた神話=内部規範からずっと覚めないでいるようである。 


<脚注>

(1).https://web.archive.org/web/20181205053149/https://ototoy.jp/feature/20140802/1

(2)政治性と挑発的なアジテーションから社会派と評されるGENOICDE ORGANが運営する老舗ノイズレーベル 

(3) 白人至上主義、ナチスモチーフ等を使うフィンランドのパワーエレクトロニクスアーティスト

(4)リチャード・ルペナス、フィリップ・ルペナスによる、初期ノイズシーンにおける最重要ユニットの一つ。


<参考文献>

ポール・ヘガティ 2014 『ノイズ/ミュージック 歴史・方法・思想 ルッソロからゼロ年代まで』若尾裕・嶋田久美訳 みすず書房

Ulex Xane 2016 Order of the Boot. Interdiction by Force: Streicher and the Growth of Power Electronics in Australia Jennifer Wallis(Eds.) FIGHT YOUR OWN WAR, headpress

Richard Stevenson 2016 Questionable Intent:The meaning and Message of Power Electronics  Jennifer Wallis(Eds.) FIGHT YOUR OWN WAR, headpress

『電子雑音』19994号 Elekt Noiz &MSBR Records







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