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歪んでいるのは世界なのか自分なのか 若松孝二『血は太陽よりも赤い』

「ぶっ壊せーぶっ壊せ―」というオープニングの音楽が、青春の熱き衝動というより異形の叫びに聞こえるのはこの映画が内包する共時的な固有性のせいなのか。寺山修司が褒めたそうだが、アヴァンギャルドっぽさというよりも主人公を始めとする若者の芋臭さも含めた鬱屈とした空気感は確かに寺山っぽさも感じる。だが実際そんな事はどうでも良くて、青春だの若さだのといった諸々の類型化した属性から切り離された所にある、獰猛なまでの怒れる自我が全面化した「俺」と、体の奥底まで不正義が染みついた唾棄すべき「大人たち」の対比から来る圧倒的な隔たりこそがこの映画の画面を支えている。

突如インサートされる雑踏の大人たちは虚ろな眼差しで足早に歩いている。その一方で次のシーンでは主人公は仲間たちと享楽的なパーティーとセックスに興じる。兄嫁が兄の為に会社社長に体を開く場面では、主人公がホテルの部屋のドアスコープから覗く視点の先にある、これから卑劣な情事に没頭するであろう大人たちの姿は歪んでいる。こういった映画の中で何度も現れる徹底した演出によって先の対比は際立っていくのだが、その中で主人公の怒りは治まることなく、激しさを増していくばかりである。父権性を盾に怒鳴り散らすだけの兄と、それに従うしかない妻。好きな女の子の父は自分の兄のせいで会社を首になり、女の子も学校を辞めて働くしかない。どこまで行っても八方塞がりの環境の中で、パーティーの最中のこれは一時の出来事なのだと宣言するかのような時が止まったような写真的な静止のカットは、決して忘れ去られることのない出来事があることを予告しているかのようである。

パーティに飽きた若者たちは街へと繰り出し、忍び込んだ先のニワトリを頭を刃物で切り落とす。「ぶっ壊せーぶっ壊せー」の歌と共に頭を捥ぎ取られて虐殺されたあのニワトリは俺自身だ。虐殺された俺は思わず呟く。「太陽がなくなっちゃう」。

太陽を消さないために主人公は汚れた大人たち抹殺することを決意する。主人公がその覚悟を持った途端、パートカラーの画面は色を持ち始める。しかしその覚悟の先にあるのは救い難い真実である。初めての殺しを行った後の中華料理屋で、動物的に食べ物に食らいつく姿を見て、憧れていた先輩ですらあの家畜のような大人たちと同じ人間なのだと悟った瞬間の主人公の表情と絶望感。その後に抱きにいった女が、自分が思いを寄せる唯一救いたかった女の子であり、写真のように時は止まる事なく、このままでは自分も徐々にあの大人たちへと近づいて行っているという事実。このラストの一連のシーンがカラー部分で映し出されているのを観て、我々は映画冒頭の同様にカラーで映し出された彼を取り巻く女たちの裸体が、単なる夢想ではなく主人公のオブセッションとして機能していたことを理解する。主人公はその先にある全てのものを拒否する為に、一寸先の自分の未来である先輩を刺し殺す。

そして最後は卑劣な大人たちを皆ぶっ殺し、彼自身が太陽になることを決意して終わる。


若松プロダクションミニシアター応援基金 コロナ収束まで試聴可

https://vimeo.com/ondemand/tihataiyouriakai

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