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退学しますシリーズpart2 学生時代を振り返る[後編]

前編では大学1~3年の話をメインでしました。

後編は大学3年~大学院1年の話をします。

サークルの幹部が終わり、サークルへはほとんど行かなくなりました。

僕の生活のメインは学校生活となります。

なんかしないと!と思い出したころ

サークルにほとんどの時間を使っていたので、いきなりやることがなくなった。何かしなきゃと、色々手を出した。主にお金稼ぎや本を読んで知識をつけようと。

面白い話がないので、研究室に入る直前までスキップ!

研究室選び

僕は研究室配属を前にし、やりたいことが何もなかった。だからどの研究室に行っていいものか。。と悩んでいた。

今までもノリで進路を決めてきた。学部のコース選択も、友達に誘われて直前で変えていた。

もう選ぶ要素は、友達しかいない!と。

僕は人選びは間違っていなかった気がする。僕が選んできた友人のおかげで大きな決断ができたから。

配属の書類提出の直前にとある友人に最後に電話をかけ、「〇〇研究室にいくわ」と僕は告げた。その友人が誘ってくれてた研究室だ。

彼は「おお。俺もCHO研と迷ってたけど、ならM研にするわ!」と同じ研究室に行くことになった。彼はこの出来事を全く覚えてはいないw

この選択は間違いではなかった。というか間違いにならないようにこれからも努力する。

配属後の苦しみ

研究室配属後は苦しかった。自由に研究させてもらえる研究室だっただけに、やりたいことが明確であれば楽しかっただろうに。やりたいことが全くなかった自分は、ただただ苦しかった。自分で決めなきゃいけないのに、行きたい方向がわからない。

教授にも「楽をしようとしているのが見え見えだ」と初っ端から叱られた。

正直どうしていいか分からなかった。研究室の同期は優秀だっただけに、座学でも遅れをとり、研究も遅れをとり、で苦しかった。

准教授に頼り切りの状態になってしまっていた。本当に情けなかった。でもなんとか大学は卒業したかったので、歯を食いしばった結果、卒業はできた。

僕は流れで大学院に進学していた。9割の同級生が進学していたため、脳死で進学を選択していた。

ある程度研究には慣れてきたものの、

・元からある物理への苦手意識が抜けない

・研究室の中で、遅れをとっている感覚

がずっと残っていた。そして大学院が始まってすぐに夏のインターンの季節になっていた。。

夏のインターンの時期に思っていたこと

夏のインターンは就活に直結すると言われていた。非常に大事だと。

でも行きたい企業もなければ、やりたいことも浮かばない。

心が死んでいた僕は、とりあえず知っている企業を受けようという無難で情けない選択しかできなかった。

そんな状態で良いESが書けるわけもなく、入りたくもない企業に「お力になれますので、何卒よろしくお願いします..」みたいな姿勢でESを書いている自分がアホらしくなった。何してんだ、、と。

研究も結構忙しかったけど、研究する目的も失ってしまった。

大学院で研究するのは、良い就職先に入るために有利な状況を作るためだったから。卒業して大きなホワイト企業に入ることをぼんやりを思い浮かべてた僕は、完全にどうして良いか分からなかった。

そんな時に、学部のコース選び、研究室選びのきっかけになった友人に相談した。

以下はその友人をFくんと呼ぶ。

相談した次の話をする前にFくん話を先にしておく

Fくんの話

Fくんは大学時代の僕と正反対の生き方をしていた。やりたいことをやる。やりたくないことはやらない。わがままなわけではない。自分がやりたいことがあって学部に入ってきていた。そして彼は、常に楽しそうだった。

僕は苦しんでいるので、彼は楽しそう。同じことをしているのに。

僕のような人間かFくんのような人間かどっちが上手くいくと思います??

答えは明白すぎる。

Fくんは非常に優秀だった。

何よりも楽しそうなのが羨ましくてしょうがなかった。そんな彼の側に居たいという思いから、彼について行っていたのだと思う。彼の存在が僕にとって、唯一興味があったのかもしれない。彼は何かと結果を出していたし、見ていて面白かった。

自分は苦しいことをしているのに、一方ではこんなに楽しそうな人間もいる。

「じゃあなんで僕はこんなに苦しいことをしているの?目的もないのに。」

この一言に尽きる。

彼がいなかったら、みんな苦しいからしょうがないや。。と言って就職していたと思う。彼があるべき姿を5年間にわたって僕に見せ続けてくれていたような気がした。

休学を決意したときのぶっちゃけ話

当時の心境や言うのが恥ずかしいことも隠さずに文字に残したいと思う。

やりたいことがわからないことをFくんに相談すると、「俺がまーくの状況なら、もうここにはいないと思う」と言われた。

自分にも覚悟を決める必要があると感じた。

今まで勉強してきたから、少し明るい未来が待ってるのかなって油断してた。

「全て捨てよう。」

そう思った。

Fくんも、僕が本気で休学するとは思っていなかったようで驚いてた。

そしてぶっちゃけた話。

そのまま就活して、仕事をして・・・ていう人生を送っても、負け続けると思った。流れの悪かった大学時代のまま、社会人を迎えることになると思った。

苦手意識・嫌だなぁって思う気持ち、こんなものをずっと抱えたまま生きていったらずっと負けだと。

負けがわかってる試合はしたくない。

本能的に負けを悟ってたから、モチベもなかった。そう言う人も中にはいるものだ、仕方ない、となんとか正当化しようとしている自分もいたが、もう限界だったのかも。

ちなみに、インターンのESも1個なんとか書き切ったがもちろん落ちた。なんちゃら合成。

行きたくもないのにES書いて、挙げ句の果てに落ちるとか馬鹿すぎて恥ずかしいわ。

休学を決意後

ここも色々隠さずに話したい。

就職したい企業もなかったので、自分で稼げるようになったら、こんな悩みもなくなるんじゃないか?と思い、ブログで稼げるようになってみようと思った。Fくんがやってたので、僕もやってみようかなと。世間を知らない自分がパッと思いつくことはそれくらいしかなかった。

僕がブログのコンテンツとして選んだのは、「ショートスリーパー」だった。自分も興味があった内容だし、なれるのならなってみたいものだった。

ショートスリーパー育成協会の発信する情報を元に、自分でも実験して、その過程をブログに書こうと。

そして、自分はこうやってショートスリーパーになったんだというノウハウでマネタイズしようと思っていた。

だが、そんな甘くなかった。

YMYL(Your Money or Your Life )に該当する項目だったので、結構頑張って記事を書いていったが、全然検索上位を取れなかった。YMYL該当する内容から外した内容は、多少上位表示されていたようだが。

(YMYLとは、お金や人生に関わる内容に関してはGoogleの評価が厳しくなること)。誤った情報が出回ると、読んだ人の人生に関わるものだから。

睡眠という分野は、医者や病院が出す記事に全く歯が立たなかったし、勝てる気配すら感じなかった。

YMYLを知ってはいたが、少し甘く見ていた。やられたよ。

完全崩壊した話

その後僕は完全に崩壊した。

ブログの失敗が原因ではない。

「なぜお金を稼ぎたいの?」って問われたことがあった。

生活していくため。欲しいものを買うため。

そう思っていた。

でも、生活だけならバイトでも生きていける。

欲しいものは何って言われたら、これといってなかった。

もちろんあるに越したことはない、というものはたくさんあったが、これは手に入れたいなぁというものはなかった。

「なんでお金が必要なの?」と完全に訳がわからなくなった。

やりたいことをやらず、ずっと我慢を続けていた自分の心は、完全に死んでいたのだ。

金を稼ぐ目的さえも見失った僕は、完全に「何がしたいのか」わからなくなった。

なんで生きているのだろう。。と思った。(死にたいとは言ってない)

ただわからなかったのだ。

まとめ

この記事ではFくんとの話や休学に至るまでの話をしました。

ES書いたけど、落ちたのはほぼ誰にも話していない。

今となってはどうでもいいけど、当時は情けなさすぎて言えなかった。

また、休学後にFくんが定期的に連絡をくれる。

僕のことを気にかけてくれる連絡だったり、彼自身の悩み事だったり。

休学して僕は気づいた。

同じコミュニティにいなくても、連絡をとったり、ずっと関わっていくんだろうなと感じたり。これが親友なんだなと。

学生時代のことは思いついた分は書いたけど、書ききれない部分は多いと思う。

次の記事では、休学後のことを書こうかなと思います。

「やりたいことがわからない」という僕が休学後にどうなったのかを。

読んでくれた方には感謝しています。


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